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お墓参り


<21日目>1989年3月1日(水)

6:30起床。風呂に入り歯を磨き8時までせっせと日記を書く。今日は天気がよさそうだ。今日はレニングラードの町中を歩かねばならないので雨が降ると困るのだ。8時過ぎに日名子を起こし、8:30にはEXPRESS TABLEへ行く。最近夜食べるようになったので朝あまり食えない。。。。

10:15部屋を出て2Fのサービスビューローでサーカスを申し込むが午後13時以降に金を支払いに来いといわれた。それに今月は17時以降にバウチャーと航空券とパスポートをもらいに行かねばならないし、18時からすぐにメシを食い、18:30にはホテルを出て19:30までにチルクへ行かねばならない。日名子と一緒にマヤコフスカヤまで行った。彼はネフスキー大通りをエルミタージュのい方へ行くらしい。

私はメトロを乗り換えアレクサンドルネフスキー寺院へ行く。みんなジロジロと私を見る。私はモンゴルの偉い人なのだ。メトロをおりて男の人に場所を聞くがこの人は分からず女の人が英語で話してくれて駅のまん前のあの建物だ!と教えてくれた。門をくぐり中へ入る。と、日本の女の人2人が外へ出て行った。私は右側の墓地に入ろうとするがどうもチケットが必要らしい。私も外へ出てチケット売り場へ行く。ここにさっきの日本人がいた。私は日本人に見られていない。思わず1人と見つめ合い急に話す。「いくら払いましたか?」 60コペイカだそうだ。もう一人が「日本人?」などと言っている。私はそんなにモンゴル人なのだろうか?チケットを買って右側の墓地に再び入る。入って左側の案内板へ行き場所を確かめる。

まず入口の右側にあったのがあのドストエフスキーの墓だ。団体客がいてなかなか写真が撮れないが、2、3枚撮る。日本人男2人が来たので私はさっさと次へ進む。次に見つけたのがグリンカの墓だ。2つ並んでいるので夫婦の墓だろう。グリンカの向かいにはムソルグスキーとボロディンの墓が並んでいた。ここらへんは作曲家の墓が集まっていた。その隣にチャイコフスキーの墓がありました。写真を撮ろうとしたがこの墓は外側がホテルなのでバックがどうも駄目だ。チャイコフスキーの墓で写真を撮っているとさっきの日本人女の人2人がやってきて写真を撮ってくれた。多分ピンぼけだろう。

チャイコフスキーの向かいにはルビンシュタインの墓があった。ピアニストだ。チャイコフスキーのピアノ協奏曲をけなした男だ。その後ぐるっと全体を見て歩きまた案内板に来て一つ一つ名前の確認をするが、私の知っている人の墓はさっき見たやつでおしまいだ。またドストエフスキーのところへ行って写真を撮る。チャイコフスキー、ボロディン、ムソルグスキーのも撮る。墓地を出て左側には入らず奥の修道院へと向かう。途中足の無い人達がいて物乞いをしていた。修道院は赤と白の建物で中央に黄色っぽい建物がある。この修道院の前にも墓地があった。みんな修道院の中には入らないが私は入っていく。すごい内装だ。今まで見てきた中で一番すごいのではないだろうか? お祈り(ミサ)をあちこちでやっていて幻想的な雰囲気だ。中はロウソクの匂いがすごい。入るときにチケットを見せなかったので多分入ってはいけないのだろう。修道院を出てさっき入らなかった左側の墓地に入った。科学者ロマノフ?やプーシキンの妻(Natalia Lanskaya)の墓があった。ここには11時ころ来たが何だかんだ1時間たってしまった。外へ出て煙草を吸う。相変わらずみんながジロジロ見る。私はモンゴルの偉い人なのだ。

チャイコフスキーの墓

ドストエフスキーの墓

再びメトロへ向かう。金を両替しているとロシアの女の人が来て3コペイカと1コペイカ2枚をよこした。私は5コペイカあげた。この人もよろしい。マヤコフスカヤで乗り換えてウラジミールスカヤでおりる。外に出ると市場があった。地図の通りだ。ここを進みちょっといったところにドストエフスキー記念館はあった。ドストエフスキーの顔があったのですぐにみつけることができた。コートと荷物を預けて入場券を何故か2枚買って中に入る。なんだか絵があってドストエフスキー関係の資料は無い。2Fへ行っても同じく絵である。3Fへ行ってやっとあった。ドストエフスキーの書いたメモみたいなものがたくさんあった。ここのおばさんも親切に案内してくれた。ロシアのおばさんはみんな親切だ。本当におばさんといった感じでみんなかわいい。メモと一緒によく絵が書いてあった。ドストエフスキーは落書きが好きだったのであろうか?

ここの部屋が見終って下へ行こうとすると奥へ案内された、奥はどうもドストエフスキー一家が住んでいたところらしい。まず子供の部屋だ。椅子の上にはフランス人形があって壁には世界地図が置いてある。机の上にはドストエフスキーが子供達に読んでやったゴーゴリ、プーシキンの本やアルファベットを勉強した本などがあった。次の部屋に行くとドストエフスキーの妻のアンナさんがずいぶんドストエフスキーを助けていたことが書かれていた。そこから書斎があってここでいろいろと書いたのだろう。書斎を見ていると食堂らしきところで急にカメラを持った人達が乱入してきた。あのモスクワのインツーリストで会った韓国のテレビ局の人達だ。彼も私のことを覚えていてくれた。何もしゃべらなかったがお互いににっこりして握手である。

ドストエフスキー記念館

13:30には下に下りてきて入口のところでドストエフスキーのカレンダーと資料を買う。そのうち韓国の人達も来た。外で握手して分かれる。煙草を吸って出発である。今度はラスコーリニコフの下宿へ行かねばならない。が、さっきの市場に寄る。おばさん達が帽子やら靴下、マフラー、靴等をもって立っている。私は帽子屋のところへ行き、白い帽子を1つ買う。15ルーブル。それに20コペイカのアイスを買ってメトロの入口で食べる。1服してメトロに乗る。2つ目で乗り換えてミーラでおりる。この付近に下宿があるはずなのだ。いろんな人に場所を尋ねたがみんな知らないらしい。しかし私はあきらめない。せっせと探す。おじさんに聞くが分からないらしい。このおじさんは他の人にも聞いてくれたのだが駄目だ。歩いているうちにニコライ1世の馬上像まで来てしまった。しょーがないから下宿はあきらめた。下宿付近をいろいろと見て歩いたのでいいだろう。イサク聖堂からデカブリスト広場に来てここでベンチに座り煙草を吸う。一休みである。足が疲れているので座ると足がひじょーに楽だ。

ニコライ1世の馬上像

15:30まで広場にいて煙草を吸いつつボーっとする。そこから旧海軍省前を通過し、宮殿広場からネフスキー大通りに入る。ネフスキープロスペクトからメトロに乗り16:30ごろホテルに到着。日名子とは17:30ごろに部屋で待ち合わせていたがちょっと早めに帰ってきてしまった。2Fでサーカスのチケットを買って部屋に戻ってきたらなんと日名子がいた。彼はネフスキー通りを歩いていたらCHANGE MONEY氏と知り合いGパンを売ったそうだ。宝石をもらったらしい。

17:45部屋を出て2Fのサービスビューローへ行きバウチャーとパスポートと航空券をもらう。明日の飛行機は午後19:15だそうだ。明日1日レニングラードを見れるらしい。しかしバクーまで4時間かかるのでバクーには夜の23時過ぎにつくことになってしまう。またトランスファーが来るだろう。それからPOST OFFICEで手紙を出してEXPRESS TABLEへ行き夕食を食べる。〜18:30

すぐにホテルを出てメトロでサーカス場へと向かう。途中で日名子が昼にCHANGEした青年と会い、場所を教えてもらった。19:15には到着して中へ入る。私はサーカスを見るのが初めてだったので楽しみだ。席は2Fの11、12でした。はじめのアクロバットみたいなやつを見てもう感動する。すごいもんだ。ピエロのショーもおもしろい。21時ごろ休憩になり、外でアイスを食べる。次に虎のショーだ。虎がほえる声はすごい。22時過ぎには終わり、外へ出てくる。私はもう疲れ果てているので5ドルのタクシーに乗ってしまう。助手席に若い女の人がいたがこの人は関係ないみたいだ。タクシーに乗る前にウィンストンをみんな取られてしまった(少年)。タクシーはビンビンとばし、あっという間にホテルに到着(22:20)。シャワーを浴びようとしたが風呂につかっただけで終わり。出てきてヴォトカを1杯飲んで日名子と話して0時ちかくになって寝た。
<補足>
SHOP、23歳の誕生日おめでとうございます。

 

 
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