全性寺 |
2014年11月23日 |
永禄11(1568)年に松井田城が落城し、城主安中忠正(忠政)は自刃し、子の忠盛が父の菩提を弔うために忠正を開基、桂昌寺五世然室玄廓を開山として全性寺を建立したと伝えられる。 |
安中忠正の墓
明治33年5月に奥原氏により再建されたもの。「秋間志」には、安中氏の家臣である秋間七騎に奥原新五左衛門をあげている。 |
安中忠正木像
正徳4年9月に奉納された安中忠正の木像。その後、寛政・慶応・平成と三度修理が行われている。 |
安中忠正の位牌
位牌銘文 |
■安中家 永禄4(1561)年になると武田氏の西上州進出が本格化し、甘楽郡国峰城が攻略され、高田城の高田小次郎は戦わず降伏し、安中氏は姻戚関係にある長野氏と共に武田氏に抵抗しているが、永禄5年には武田氏へ服属したものと考えられている。永禄9年9月に箕輪城が落城すると西上州は武田領となり、10年8月に信玄は甲斐・信濃・上野の武士から忠誠を誓う起請文を提出させ、生島足島神社に奉納している。碓氷郡では安中左近大夫景繁、安中五郎兵家繁、安中刑部助繁勝、後閑伊勢守信純、松本総右衛門尉重友、松本膳右衛門尉行定、須藤縫殿助久守らの名前が見える。
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