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群馬県安中市

久昌寺

2014年11月23日

本堂

開基は安中忠清、開山は月巣玄鶴とされ、大永5(1525)年に忠清が松井田城より現在の久昌寺の地に移って榎下城(鶴巻城)を築いた時に建立したと伝えられる。しかし「上野国郡村志」には忠清の開基、元和年間(1615〜1624)に玄鶴の中興とある。久昌寺には開基の安中忠清と同じ形式の彦根藩主井伊直孝(1590〜1659)の位牌が伝わっている。箕輪城主井伊直政の庶子であった直孝は幼少の頃、安中で過ごしている。直孝と久昌寺の関係は分からないが、直孝の戒名が久昌院殿豪徳天英大居士であることから、久昌寺の寺名の由来になったものと思われる。
(西上州の中世より)

安中忠清の墓

清光院殿従三位入道前伊州樹公羽林桂
(西上州の中世より)

「安中志」には、安中忠清の墓が描かれているが、「後世に建たる物か書式都て覚束なし」としている。
(西上州の中世より)

 

■安中家
忠親-忠清-忠正(政)(春綱)(重繁)-忠成(広盛)(景繁)

江戸時代になると、郷土の風土・伝説・風俗を記した風土記や戦国時代の合戦の様子を描いた軍記物(戦記物)が作られた。碓氷郡の風土記には「安中志」や「安中記」のように安中藩が主導して作ったものや「秋間志」のように個人が作ったものがある。
軍記物には武田信玄による箕輪・安中・松井田城攻めを描いた「箕輪軍記」や豊臣秀吉による松井田城攻めを描いた「上州松枝落記」などがある。しかし、江戸時代に成立した風土記や軍記物に登場する安中氏は中世文書にあらわれる安中氏と名前が違っている。
「関八州古戦録」では安中越前守春綱・安中左近大夫広盛の父子、「甲陽軍鑑」では安中左近、風土記では出羽守忠親、伊賀守忠清、越前守忠正(政)、左近大夫忠成などとしている。これは官途名が同じであるため、春綱と忠正が越前守重繁、広盛と忠成が左近大夫景繁と考えられている。
また市内にある安中氏の開基と伝えられる寺院も風土記にある名前を使い、それらの寺院に伝わる安中家系図もその名前を使っている。江戸時代の碓氷郡では、中世文書にある「繁」の字を実名とする安中氏は忘れ去られ、風土記などにある「忠」の字を実名とする安中氏が軍記物の中で活躍することとなった。
(西上州の忠世より)

永禄4(1561)年になると武田氏の西上州進出が本格化し、甘楽郡国峰城が攻略され、高田城の高田小次郎は戦わず降伏し、安中氏は姻戚関係にある長野氏と共に武田氏に抵抗しているが、永禄5年には武田氏へ服属したものと考えられている。永禄9年9月に箕輪城が落城すると西上州は武田領となり、10年8月に信玄は甲斐・信濃・上野の武士から忠誠を誓う起請文を提出させ、生島足島神社に奉納している。碓氷郡では安中左近大夫景繁、安中五郎兵家繁、安中刑部助繁勝、後閑伊勢守信純、松本総右衛門尉重友、松本膳右衛門尉行定、須藤縫殿助久守らの名前が見える。
(西上州の中世より)

 

 
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