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群馬県安中市

桂昌寺

2014年11月23日

永正10(1504)年に安中忠親が開基となり、天陰玄鎖によって開かれた。「秋間志」では念空上人のために忠親が建立したとある。安中城の鬼門の方向に位置し、有事の際の砦の役割もあったと言われている。桂昌寺はかつて桂昌院と呼ばれていたが、五代将軍徳川綱吉の生母が桂昌院と名乗ったことから改名を求められ、桂昌寺に改めた。また秋間山桂昌寺と書かれたものもある。
(西上州の中世より)


本堂

安中忠親の墓

安中藩主井伊直好室と共に歴住墓地にあり、墓は江戸時代に建立された。
(西上州の中世より)

墓石銘文
正面:開基旭渓院殿桂岩芳公庵主
左面:永正3丙寅年11月17日 薨年93歳
右面:後嵯峨院第一皇子宗尊親王八代後胤上野国松井田
   小屋城主安中出羽守忠親
(西上州の中世より)

 

■安中家
忠親-忠清-忠正(政)(春綱)(重繁)-忠成(広盛)(景繁)

江戸時代になると、郷土の風土・伝説・風俗を記した風土記や戦国時代の合戦の様子を描いた軍記物(戦記物)が作られた。碓氷郡の風土記には「安中志」や「安中記」のように安中藩が主導して作ったものや「秋間志」のように個人が作ったものがある。
軍記物には武田信玄による箕輪・安中・松井田城攻めを描いた「箕輪軍記」や豊臣秀吉による松井田城攻めを描いた「上州松枝落記」などがある。しかし、江戸時代に成立した風土記や軍記物に登場する安中氏は中世文書にあらわれる安中氏と名前が違っている。
「関八州古戦録」では安中越前守春綱・安中左近大夫広盛の父子、「甲陽軍鑑」では安中左近、風土記では出羽守忠親、伊賀守忠清、越前守忠正(政)、左近大夫忠成などとしている。これは官途名が同じであるため、春綱と忠正が越前守重繁、広盛と忠成が左近大夫景繁と考えられている。
また市内にある安中氏の開基と伝えられる寺院も風土記にある名前を使い、それらの寺院に伝わる安中家系図もその名前を使っている。江戸時代の碓氷郡では、中世文書にある「繁」の字を実名とする安中氏は忘れ去られ、風土記などにある「忠」の字を実名とする安中氏が軍記物の中で活躍することとなった。
(西上州の忠世より)

永禄4(1561)年になると武田氏の西上州進出が本格化し、甘楽郡国峰城が攻略され、高田城の高田小次郎は戦わず降伏し、安中氏は姻戚関係にある長野氏と共に武田氏に抵抗しているが、永禄5年には武田氏へ服属したものと考えられている。永禄9年9月に箕輪城が落城すると西上州は武田領となり、10年8月に信玄は甲斐・信濃・上野の武士から忠誠を誓う起請文を提出させ、生島足島神社に奉納している。碓氷郡では安中左近大夫景繁、安中五郎兵家繁、安中刑部助繁勝、後閑伊勢守信純、松本総右衛門尉重友、松本膳右衛門尉行定、須藤縫殿助久守らの名前が見える。
(西上州の中世より)

 

 
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