桂昌寺 |
2014年11月23日 |
永正10(1504)年に安中忠親が開基となり、天陰玄鎖によって開かれた。「秋間志」では念空上人のために忠親が建立したとある。安中城の鬼門の方向に位置し、有事の際の砦の役割もあったと言われている。桂昌寺はかつて桂昌院と呼ばれていたが、五代将軍徳川綱吉の生母が桂昌院と名乗ったことから改名を求められ、桂昌寺に改めた。また秋間山桂昌寺と書かれたものもある。 |
本堂
安中忠親の墓
安中藩主井伊直好室と共に歴住墓地にあり、墓は江戸時代に建立された。 墓石銘文
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■安中家 永禄4(1561)年になると武田氏の西上州進出が本格化し、甘楽郡国峰城が攻略され、高田城の高田小次郎は戦わず降伏し、安中氏は姻戚関係にある長野氏と共に武田氏に抵抗しているが、永禄5年には武田氏へ服属したものと考えられている。永禄9年9月に箕輪城が落城すると西上州は武田領となり、10年8月に信玄は甲斐・信濃・上野の武士から忠誠を誓う起請文を提出させ、生島足島神社に奉納している。碓氷郡では安中左近大夫景繁、安中五郎兵家繁、安中刑部助繁勝、後閑伊勢守信純、松本総右衛門尉重友、松本膳右衛門尉行定、須藤縫殿助久守らの名前が見える。
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