市川三郷町
安永年中(1775頃)には、善福寺と大竜寺のみで、門前の竹薮を切り開いて長屋を建て7軒になったのが始まり。天正の武田氏滅亡の時、一条右衛門太夫信就の戦跡。老狐「おまん女」の伝説。竹越の地名が残る。 (説明資料より)
JRの踏み切りの近くに一条右衛門大夫信竜公旧蹟と書かれた石碑があり、その中に入って行くと小さな建物があり、その奥には説明板と石碑がありました。
一条右衛門信竜公供養塔
一条右衛門信竜公 信竜公は武田二十四将の一人で勇猛な武将であった。甲斐国志に次のような記述がある。 「信虎の男也竜一ニ作ル隆ニ作ル達ニ者多シ未ダ見的書ヲ一条家迹ヲ継ギ氏号トス。古府中ニ邸跡アリ城墟ハ八代郡上野村ナリ、各ニ古跡ノ部ニ委シ軍鑑ニ騎馬二百(伝解作百騎)旗ハ白地ニ裾赤、七人軍将ニサシ次デ武名アリ。山県云伊達者ニテ好ム花麗ヲ生質ナリシト云々市川村善福寺ト云寺ニ墓アリ。往時火災ニヨリ失フ牌子年月モ不祥カナラ」 昭和47年2月篤志者東京都住星野仁氏墓石なきと嘆きて現在の供養塔を建立せり。 (看板資料より)