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埼玉県上里町

陽雲寺

2005年05月01日

陽雲寺は曹洞宗の寺で、鎌倉時代初期の元久2(1205)年の創建と伝えられ、初め唄樹山満願寺と称したという。元弘3(1333)年新田義貞が鎌倉幕府打倒を祈願して不動堂を造立したことが寺伝にみられ、以来「新田勝軍不動堂」などと称され、室町時代には金窪城主斎藤氏の帰依が厚かった。天文9(1540)年斎藤定盛が諸堂を修復し、寺名を崇栄寺と改めたが、天正10(1582)年の神流川合戦の兵火で焼失した。
天正19年、金窪の領主となった川窪信俊は養母である武田信玄夫人を伴って入封し、信玄夫人は当寺の境内に居住したが、元和4(1618)年に没した。信俊は夫人の菩提を弔うため、その法号である陽雲院をとって寺号を崇栄山陽雲寺と改称した。元和5年には徳川幕府から御朱印5石が寄せられている。
なお、境内には県指定文化財となっている元禄銘のある銅鐘や、県指定旧跡となっている新田義貞の家臣であった畑時能の供養塔などがある。
(看板資料より)

上里町指定文化財
・銅鐘(国指定)
・畑時能之墓
・武田信玄夫妻画像
・釈迦如来坐像
・実美公御野剱
・古銅正観世音立像
・武田信玄公起請文
・跡部美作守軍状
・陽雲院殿の墓
(看板資料より)

陽雲寺所蔵文書
当寺の前身は崇栄寺と号し、天文9(1540)年金窪城主斎藤左衛門尉盛光が開基となって創建したが、天正10(1582)年の神流川の合戦で焼失した。その後、金窪村の領主となった武田信玄の甥である川窪信俊が再興するとともに寺号を信俊の養母であり、信玄の夫人であった陽雲院の名をとって陽雲寺と改めた。
そうした関係で、当寺には武田信玄直筆の起請文・書状・判物など6点があり、典型的な戦国大名の文書として貴重である。なお、当寺にはこの他に古河公方足利政氏の文書1点も伝えられている。
(看板資料より)

伝武田信玄・陽雲院夫妻画像1幅
この画像は、畳上に剃髪・道服姿で脇息にもたれる信玄と、小袖を着た夫人陽雲院とが並んで描かれており、夫妻の風貌や夫人の小袖に甲州をしのばせる葡萄模様を表すなど、趣きのある作風を示している。
作者は、幕府の御用絵師をつとめた狩野派の狩野元俊秀信で、画面隅に「年寿82歳元俊書之」とあり、寛文12(1672)年85歳で没しているので寛文9(1669)年の作であることがわかる。絹本着色、縦32.2cm、横33.3cm。
(看板資料より)

銅鐘


陽雲院殿の墓

信玄夫人である陽雲院殿の墓だそうです。陽雲院が三条夫人なのかどうかは疑わしいですが、少なくとも信玄甥である川窪信俊がこの地にいたということは確かなようです。


武田家遺臣招魂碑

三条実美により書かれたものだそうです。三条実美は明治新政府の太政大臣を務めた京都の貴族ですが、信玄夫人は三条公頼の次女であり、縁があるとのことです。しかし信玄夫人である三条夫人は信玄より先に死んでおり、山梨県甲府市の円光院というところに墓もあります。果して本当に三条実美がここまで来て書いたものなのか疑ってしまいます。

 

 
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