設楽原決戦では勝頼本営に配置さた足軽大将で騎馬30騎(足軽100人)。横田備中守の嗣。
(戦国の陣没将士墓苑記載文章より)
新昌寺前から北へ300メートル。道路から右に10メートル入った民家の庭先に台石の上に高さ125センチ、幅68センチの碑「横田十郎兵衛康景之碑」が立っている。この碑は大正3年、長篠古戦場顕彰会によって、長篠城に直面するように東北向きに建立された。康景は、別に国次と名乗っていた。本陣付きの部将で敗退の時、主君勝頼の退路を守りつつ、近くに墓碑のある小山田五郎兵衛昌晟と共に、この地まで退却して来た。すると鳶ヶ巣山を降りて来た酒井忠次軍と城を打って出た兵が、城包囲の武田軍と混戦を演じて康景はその中で戦死した。
康景の義父横田備中守高松は、武田信虎、信玄の二代に仕えた足軽大将で、勇名を馳せた武将の一人で、信玄の東信濃の平定にむけて高松の働きは大きかった。戸石崩れの合戦で村上勢に包囲され、ついに戦死した。横田家には跡継ぎがいなかったので、信玄は原美濃守の子を入れて横田氏の家名を継がせ、十郎兵衛康景と名乗らせた。
(東三河の史跡めぐりより)
『武田信玄家臣団編成表』(柴辻俊六)を見ると、信玄直属の譜代国衆のもと、21人の足軽大将衆の筆頭に、横田康景の名が見える。また『山梨県姓氏大辞典』(角川書店)には、『甲陽軍鑑』を引用して、「横田備中守高松の子横田十郎兵衛丞康景は足軽大将として騎馬三十騎、人足百人」と書かれている。
しかし『日本戦史付表』(陸軍参謀本部)の中にある『武田軍織田徳川軍将士表』には、東軍の死者の中には康景の名は無く、「横田十郎兵衛綱松、51歳、原甚四郎盛胤の兄」とある。綱松というのは「家乗」である。家乗というのは「家の記録・歴史」のことであるから、横田家では綱松と記録していたのであろう。そうなれば、宮脇原で討死したと伝えられる横田備中守綱松と同一人物ではなかろうかとも考えられる。
現在の碑が顕彰会によって建てられたのは大正3年のことであるが、それ以前の文献には有海地区にあるとされる墓碑に、横田十郎兵衛の名はなく、全てが横田甚右衛門となっているのだ。横田十郎兵衛康景(あるいは綱松)には4人の息子がいたと伝えられている。上の3人、小才次、小陸奥、源介は、長篠の戦いで若くして討死している。末っ子の尹松は後に徳川家康に仕え、御旗奉行にまですすんでいる。その尹松は仮名を甚五郎、あるいは甚右衛門とも言っていたらしい。そうすればこの墓碑は十郎兵衛康景の3人の息子のうちの一人のものであるかもしれない。
(設楽原戦場考より)
横田十郎兵衛康景の墓は、新東名工事のため新昌寺本堂裏に移設されていました。鳥居強右衛門の碑の横になります。すぐ後ろには新東名が開通する予定のようで工事が進められていました。
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