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長野県上田市

戸石城

2014年09月
28日

本城の南にある戸石城

戸石城跡
この城は東太郎山の一支脈が、神川に沿って南方に突き出している高い尾根に構築され、本城を中心に北に桝形城、南に戸石城、南西に米山城を配した堅固な山城で、総称して戸石城と呼ぶ。
<本城>
戸石城全域で最も広大で、最上部の本郭から南へ二の郭、三の郭と続き、その東下または東南方に四の郭、三日月形郭、帯部等郭群の遺構をよくとどめている。本城の東南は小さな谷間で、これを登る両側には小段郭が麓まで、幾重にも続いており、登城口(大手)と見られている。
<桝形城>
北方最高所標高800メートルにあって、自然の山頂を利用している。郭の西方入口に四平方メートルの桝形があるのでこの名がついた。郭は長方形で、手前に半月形の段郭が2つある。
<戸石城>
本城の南に連絡しており、北下りの鞍部に幅9メートルの深い堀切がある。本郭は方20メートルの削平方形郭で、周囲の展望は実に良い。

戸石城は村上・真田氏が戦略上重要視し、また重要な役割を果たした城である。規模が大きく、四要害を一体として構築し、しかも居館としても用いられた極めて特色ある貴重な史跡である。
(戸石城の看板資料より)


切岸

切り立った険しい崖を切岸というが、戦国時代の城郭では敵の侵入を防ぐために、人工の切岸も造られた。この切岸も人手が加えられたとみられる急崖で、下の堀切とセットになっており、伊勢山方面からの道を押さえている。元来は、はしごを掛けて登降していたものとみられる。
(看板資料より)


本城虎口

石垣跡

本城

本城
戸石・本城・桝形と連なる三要害(砦)からなる戸石城の中心である。南から北へと段登りの数段の削平した郭からなっており、最上部が本郭である。山上としてはかなり広い郭群であり、館もあったのではと推定されている。尚、一般に「本城」とは江戸時代の本丸にあたる。
(看板資料より)

空堀跡


矢竹

矢竹は節が低く節間もまっすぐなところから矢(矢柄)に用いられ、自然に生えるだけでなく栽培もされる。
この辺一帯に繁っている矢竹も砥石城内に植えられていたものの名残ではないか、とみられている。ここに限らず、中世の城跡や館跡に矢竹が生えている例は多い。


桝形城

戸石城北端の要害(砦)。入口が折れ曲がっており、桝形状になっているところからこの名がおこったものとみられる。尚、ここが戸石城の最高地点であるところから、ここが「本城」とされていた時期もあった。真田氏の本拠、真田町の本原、長方面が一望に見渡せる。
(看板資料より)


米山城

戸石城は本城を中心に北に桝形城、南に戸石城、南西に米山城の四要害から構成されている堅固な連郭式の山城である。築城年代は明らかではないが、室町時代後期坂城の村上氏が小県へ方面進出する拠点としていた。
天文19年村上義清が武田晴信の軍を大敗させ、世に「武田の戸石崩れ」と称されたが、翌天文20年真田幸隆は調略を用い、独力で攻略した。やがて隆幸の子昌幸はこの城を居城としたが、天正11年上田に移った。それ以降も上田城外護の要害として重要視された。
米山城は戸石城の西南方の峰続きにあって、本郭の南下に二の郭、三の郭を配し、その下に腰郭も築かれている。また白米を馬の背に流して、水が余るほどあることを敵にみせかけたという、白米城伝説も残されている。
(看板資料より)



2012年03月
17日

天文17(1548)年の上田原合戦において村上義清に敗れた武田信玄は、その後、態勢を立て直し再び村上氏に矛先を向けました。天文19(1550)年9月、村上方の重要拠点であるここ砥石城を攻めました。ここを破れば地蔵峠(上田市と長野市の境)を越えて村上氏の本拠地(坂城町)の背後へ迫ることができるため、信玄は激しく攻め立てました。しかし村上方の抵抗は激しく、城攻めをあきらめた信玄が軍を退却させたところを、村上方は見逃さず追撃し武田軍を破りました。この武田の敗戦は「砥石くずれ」として現在まで語り継がれています。
翌天文20(1551)年、真田幸隆が計略を使いあっさりと落城させてしまいました。その後、幸隆は信玄の家臣として、信濃攻略を進める際に重要な役割を果たしました。
(看板資料より)

今回の目的であった戸石城攻略は悪天候のため断念しました。以前来た時は車を止めるところもなくて分かりづらいところから登った記憶があったのですが、今では駐車場やトイレまで完備されていて驚きました。
更に驚いたのは登山道の入口に櫓のようなものが造られていて正面には真田幸村らしき絵が飾られていたことでした。ここで知り合ったおじさんの話によるとNHK大河ドラマの影響で大勢の人が訪れるようになり、本丸周辺にはロープも準備されているのだそうです。櫓はまだ出来て間もないとのことでした。



2003年09月
23日

この城跡は、北に太郎山を背負い、東側は神川の断崖に臨み東太郎山の支脈が南方に突き出た先端に築かれた要害堅固な中世の山城跡である。城跡からの眺望はすばらしく、上田・小県地方はもちろん、烏帽子岳西麓から北佐久方面まで一望のもとに見渡すことができる。
築城の時期については、諸説があり定かではないが、埴科郡坂城に本拠を置いた村上氏、あるいは真田本城に本拠を置いた真田氏などが、上田・小県・佐久地方の軍事上の要として築いたものと考えられている。いずれにしても、室町時代後期の頃である。
城跡は、北から西にかけて桝形城・本城・戸石城と並び、本城と戸石城の間には馬場も設けられていた。また、曲輪、石塁、堀切りなどいくつもの防御設備を設けており、この地方随一といわれた堅塁でもある。その要害堅固さは、武田の「戸石崩れ」の故事をよく物語っている。
山城の多くは、戦略上の要害として築かれるが、戸石城は規模が大きいと共に、本城は居館としても用いられ、居住性も兼備した特色のある山城であり貴重である。
(看板資料より)

朝5:00に起床。上山田温泉を出発して戸石城に向かいました。6時過ぎには現地に到着しましたがどこから登っていいのか分からず、しばらくあたりをウロウロしたのですが、ちょうど早起きのおばちゃんがいたので聞いてみると奥のお寺からも登れるがお墓の横にある細い道を行けば行かれると教えてくれました。確かにさきほど戸石城の看板があったところにお墓はありましたがその横に道なんかあったかなぁ?と思いつつそこまで戻ってみることにしました。するとそれらしき道のようなものがあったので靴を履き替えて杖を持って登り始めることにしました。(上の写真のところ)

道を進むと途中左側に小さな石碑(お墓?)が並んでいるところがあり、更に進むと左側に米山城を見ることができました。(一番下から2番目の写真) 尾根に出ると看板があり(上の写真)、右に進むと戸石城まで15分、左に進むと米山城10分と書いてありましたが、休憩しながら考えた結果、先に戸石城に行くことにしました。ここで言っている戸石城とは戸石城の本城のことなのか、一番奥の桝形城のことなのか、一番手前の戸石城のことなのかは分かりませんでしたが、15分という数字を見て、言われていたよりは意外と規模が小さい城なのでは?とも思いました。ここから先は下の写真のようにきれいに階段が整備されていて足場は良かったです。


戸石城からの眺め

戸石城跡
この城は東太郎山の一支脈が、神川に沿って南方に突き出している高い尾根に構築され、本城を中心に北に桝形城、南に戸石城、南西に米山城を配した堅固な山城で、総称して戸石城と呼ぶ。
<本城>
戸石城全域で最も広大で、最上部の本郭から南へ二の郭、三の郭と続き、その東下または東南方に四の郭、三日月形郭、帯部等郭群の遺構をよくとどめている。本城の東南は小さな谷間で、これを登る両側には小段郭が麓まで、幾重にも続いており、登城口(大手)と見られている。
<桝形城>
北方最高所標高800メートルにあって、自然の山頂を利用している。郭の西方入口に四平方メートルの桝形があるのでこの名がついた。郭は長方形で、手前に半月形の段郭が2つある。
<戸石城>
本城の南に連絡しており、北下りの鞍部に幅9メートルの深い堀切がある。本郭は方20メートルの削平方形郭で、周囲の展望は実に良い。

戸石城は村上・真田氏が戦略上重要視し、また重要な役割を果たした城である。規模が大きく、四要害を一体として構築し、しかも居館としても用いられた極めて特色ある貴重な史跡である。
(戸石城の看板資料より)


切岸

切り立った険しい崖を切岸というが、戦国時代の城郭では敵の侵入を防ぐために、人工の切岸も造られた。この切岸も人手が加えられたとみられる急崖で、下の堀切とセットになっており、伊勢山方面からの道を押さえている。元来は、はしごを掛けて登降していたものとみられる。
(看板資料より)


本城

本城
戸石・本城・桝形と連なる三要害(砦)からなる戸石城の中心である。南から北へと段登りの数段の削平した郭からなっており、最上部が本郭である。山上としてはかなり広い郭群であり、館もあったのではと推定されている。尚、一般に「本城」とは江戸時代の本丸にあたる。
(看板資料より)

石垣


桝形城

桝形城
戸石城北端の要害(砦)。入口が折れ曲がっており、桝形状になっているところからこの名がおこったものとみられる。尚、ここが戸石城の最高地点であるところから、ここが「本城」とされていた時期もあった。真田氏の本拠、真田町の本原、長方面が一望に見渡せる。
(看板資料より)

一番奥の桝形城の奥からは真田町が一望できた。思ったより早く戸石城を見ることができ、時間に余裕ができたので、下山後真田町の方に行くことにしました。事前の調査がまったく出来ていないのでちょっと心配であるが歴史の町でもあるし何とかなるだろう。


米山城
戸石城は本城を中心に北に桝形城、南に戸石城、南西に米山城の四要害から構成されている堅固な連郭式の山城である。築城年代は明らかではないが、室町時代後期坂城の村上氏が小県へ方面進出する拠点としていた。
天文19年村上義清が武田晴信の軍を大敗させ、世に「武田の戸石崩れ」と称されたが、翌天文20年真田幸隆は調略を用い、独力で攻略した。やがて隆幸の子昌幸はこの城を居城としたが、天正11年上田に移った。それ以降も上田城外護の要害として重要視された。
米山城は戸石城の西南方の峰続きにあって、本郭の南下に二の郭、三の郭を配し、その下に腰郭も築かれている。また白米を馬の背に流して、水が余るほどあることを敵にみせかけたという、白米城伝説も残されている。
(看板資料より)

桝形城からは再び、本城まで戻り、戸石城の横の道を通って米山城に向かいました。先ほどの尾根を下り、看板まで来て今度は反対側の米山城方面に向かいましたが登り始めてすぐに馬場跡を通過してすぐに米山城に到着。ここは4つの城の中で一番開けていて明るいところでした。大きな石碑(村上義清公の碑)があって、上田の町の方に向かって段々状に郭があり先まで行ってみましたがここら辺が二の郭、三の郭なのかもしれません。その後山を下り、8時前には戻ってくることができました。

 
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