横地城 |
2010年01月10日 |
牧之原台地の一志尾根が奥横地へ舌状に延びており、その先端を含め、東西約1.5qの地域が横地城である。別名を金寿(きんす)城といい、おそらく室町時代初期、近隣の勝間田・新野氏の城とほとんど同じ頃築城されたと考えられる。横地城の戦略的な価値や近隣豪族との関係は時代と共に変遷があって、互いに力関係に対応して規模や備えにも変化が生じたのであろう。 |
井戸跡
横地城は、室町時代国人領主横地氏の山城です。 |
本丸横の空堀
金寿城(本丸) |
中城跡
東城と二の丸の境に木戸をもうけ、その傍東に兵器庫、千飯庫がおかれたところ。 |
二の丸
副将級と他地域から応援に来た武将が詰め、標高94.9m(この頂上に明治35年-1902静岡市麻機知徳院から家永像が来て、小祠をたて、それを機に、横地氏を祭る現在の横地神社がたてられる)南側は五段に形成され、前面に土塁と濠が廻らされ、北側は象の鼻に向って八段、東の谷に向って三ヶ所に段が、構築され、うちニヶ所は十一段から成っている。やしろの裏手からは落城時の焼米が出土した。 |
土塁濠跡
平安時代の中頃、奥州の豪族安部氏が叛き、前9年、後三年の役といわれる長い乱が起ったが、当時陸奥守であった源頼義は、勅命によってこの乱鎮圧のため奥州に向った。その子八幡太郎義家も、父加勢の為に遠江国見付(磐田市)の宿まで兵を進め、折からの長雨に滞在中、当時この辺りに勢力のあった相良太郎藤原光頼の娘との間に出来た子が、義家の力によって横地村に住し、初代の横地太郎家永と伝えられている。 |
一騎駆
両岸きりたった絶壁で、大軍を擁しても、通過するためには一騎づつしか渡れないので、この名が起きたのであるが、この一騎がけの両端には必ずねらいうちが出来る様、構えの段が造くられていた。 |
金玉落しの谷
城兵戦闘訓練の場で兵は膝つき谷の底に膝をつき待機、山上より太鼓を合図に金の玉を谷底に落とし兵は一斉に尾根にかけ上がり、又谷に下り、玉をさがしあてた者は山にかけ上がって賞を貰ったと伝えられている。
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