小笠町下平川志茂組にあり、徳川家の直参旗本本多日向守の知行地、下平川、嶺田の一部および三沢の四千五百余石を支配する代官所跡である。
この代官職は、今川氏以来この地を知行する黒田氏によって継続されてきた。黒田氏の祖は越前国黒田荘を領した黒田下野守義次で、はじめ「足利」を姓としたとも伝えられる。のち紀州にも住んだが、八大九郎大輔(くろだゆう)義則が現在地に屋敷を構えて初代となり、今川・徳川の両氏に仕えて高天神城を守備した。現在、代官所の名称は各地に残るが、黒田氏邸ほど広く完全に長屋門や敷地・環濠の遺構を残しているものはないといっても過言でない。
初め今川氏に属したが、永禄12(1569)年今川氏真が掛川を退去し北条氏康を頼ったのち、近傍諸士と共に徳川氏に仕え、家康の命で高天神城将小笠原与八郎長忠の組下となった。元亀2(1571)年、武田信玄が遠江国に進入すると、義則はその子義得と共に高天神城に籠もり斎藤宗林の麾下に入った。その後、天正2(1574)年6月、武田勝頼の猛攻をうけて小笠原長忠が開城すると、義則・義得親子は郷里平川村に帰り、義則は慶安3(1650)年8月4日に没した。
(日本城郭大系より)
黒田家はもと足利氏。足利下野守義次のとき越前国黒田荘に居住したことから、黒田の姓を用いるようになった。永禄のころ(1558〜70)黒田義重が遠江国に移り、城飼郡下平川に住して今川氏に仕えるようになったといわれる。
天正2(1574)年武田勝頼が高天神城を攻めた際、黒田義則は高天神城を守る一将であった。高天神城落城後、義則は武田・徳川のいずれにも属さず下平川村に帰農した。
江戸時代前期、横須賀城主本多利長の兄本多助久が旗本として下平川村を中心に4500石余を領すると、黒田氏はその代官に任じられ、明治維新まで旗本本多家の代官として領内の支配に務めた。
明治維新以後、黒田源五郎は城東郡の郡政に貢献し、当地域の地租改正作業に尽力した。以後黒田家は平田村村長、小笠町町長などを歴任し、当地域の指導者としての地位を築いていった。
(看板資料より)
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