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長野県千曲市

屋代城

2008年12月29日

一重山(屋代城)

以前来たときは屋代駅側から登ろうとして断念していたのですが、今回は事前調査の結果、反対側に道路があることが判明しそちらから登ってみました。しかし森将軍塚古墳は進入禁止だったので、長野県立歴史館の裏の方から登って行きました。道路は完全に雪道でしたがなんとか登ることができました。道路の終点にはお寺の墓がありました。その少し手前に屋代城への入口と案内板がありました。登りついたところが本郭ですぐ隣が二の郭でした。鉄塔が建っていました。またすぐ横には長野新幹線が走っていました。
北に向って降って行くと曲輪と掘切が連続して現れ、土橋、土塁なども看板で分かりやすく案内されていました。
日本城郭大系によれば、森将軍塚古墳が大がかりな土砂採取作業で崩壊の恐れが出たので、代わりに採掘対象を屋代城に求められ、このため本郭以南は完全に失われてしまったとのことでした。その後も地元では残った城跡の土砂採取を望む声があったので急いで市史跡に指定された背景があるようです。

屋代城本郭

市指定文化財 屋代城跡
屋代城跡は、応仁の乱(1467)ごろから川中島合戦の行われた天文年間(1553)ごろの間、この地を治めた屋代氏の居城として築かれたものです。
一重山の尾根筋には、たくさんの曲輪(施設が置かれた平坦地)が南から北に連続し、曲輪と曲輪の間は主として堀切りや、竪堀で遮断されています。また斜面には、この城の大きな特徴である、雛壇状の腰曲輪と呼ばれる削平地が設けられているのを見ることができます。
(看板資料より)

二の郭から本郭

屋代城は、一重山全域に城郭施設を設けた山城である。尾根筋に12の曲輪が南から北に連続し、曲輪と曲輪の間は堀切や竪堀で遮断されているが、土橋で連結しているところもある。曲輪の周囲の斜面には、この城の大きな特徴である雛壇状の腰曲輪(削平地)が設けられている。主郭の周囲には、土留めの石垣が積まれている。
この屋代城は、15世紀後半の応仁・文明の乱のころ、村上氏の代官として活躍した屋代氏が村上氏と結び、海野・井上氏と抗争し、その必要性から屋代氏によって築城されたと考えられている。天文22(1553)年4月に、村上義清の拠点狐落城、葛尾城が落ち、村上氏は塩田城に逃走した。この戦乱の中で屋代氏は武田方に転身するとともに屋代城を去って、新たに与えられた荒砥城を拠点とすることとなり、屋代城は廃城となったと推定される。屋代氏は戦国期において、村上氏・武田氏・上杉氏・徳川氏と次々に主人を替えた典型的な戦国武将といえる。
こうした地方武将の居城であった屋代氏は、戦国末期の改造が加えられていない。また屋代城の特徴である雛壇状の腰曲輪は、信濃の城郭の一つの基型であり、重要な山城である。
(看板資料より)

土塁

堀切

御嶽神社

御嶽神社旧蹟地 由来
過去徳川時代より数百年に及ぶ御嶽密教の整地として屋代地区の信者の信仰を集めた此所跡地も昭和55年8月社殿真下に通じる市道認定と社殿の老朽化に伴う危険防止の為、一重山稜線の北方に厳かに遷座す。
(石碑に彫られた文章より)

 


屋代源吾の墓
勝永寺

 

 
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