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山梨県北杜市

勝栄寺

2013年10月13日

屋代越中守勝永の墓

屋代氏は、代々信濃国埴科郡屋代郷に居を構えていたが、天文・弘治の頃、本州に移り武田晴信の配下に属す。武田氏滅亡後は、徳川家康の幕下で功績があった。元和9(1623)年8月に66歳で没す。
(看板資料より)

 



2007年11月18日

勝永寺の門

勝栄寺というところに屋代越中守勝永の墓があるとのことでしたので行ってみることにしました。須玉インターチェンジから北に向かって行く方向なのですがなかなかたどり着くことができませんでした。実はかなり近いところまで来ていたようなのですが、ちょうど外で作業をしていた方に場所を尋ねてみると、歴史に詳しい方のようでお寺の場所はもちろんですが、屋代越中守勝永の墓の場所まで教えてくれました。お寺に行って車を止めて周辺を歩いてみました。お寺の前には門があって、勝永寺の門と書かれていました。市指定文化財に指定されているようでした。そこからまっすぐにのびているあぜ道のような所を歩いていくと屋代越中守勝永の墓がありました。信州から甲州に移り住んできたとのことでした。村上氏の家臣であった屋代正国・満正兄弟はたびたび武田氏と戦いましたが、屋代越中守勝永は屋代満正の子とのことです。村上氏が没落した後、屋代兄弟は武田氏に仕えます。その後、屋代勝永は屋代正国の養子となって家督を継ぎ、静岡県の丸子城を任されますが、武田氏滅亡後は上杉氏に仕え、更に徳川氏に仕えたようです。


屋代越中守勝永の墓

屋代氏は、代々信濃国埴科郡屋代郷に居を構えていたが、天文・弘治の頃、本州に移り武田晴信の配下に属す。武田氏滅亡後は、徳川家康の幕下で功績があった。元和9(1623)年8月に66歳で没す。
(看板資料より)


屋代源吾の墓
屋代城

 

 
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