信光寺 |
2013年10月13日 |
正治年間(1200年)武田氏5代石和五郎信光公ニヨリ創建。当時、真言宗金剛院ト称シ班山々麓ニ所在セルモノ如シ、永正2(1505)年華岳玄桃和尚改宗シテ現山寺号トナル。寛永元(1624)年三枝土佐守公七堂伽藍ヲ建立以来御朱印石高17石甲斐6ヶ寺ノ一にして僧録所及ビ学僧常在ノ禅林ヲ置キタリ。万治2(1659)年、大正10(1921)年再度焼失ノ難ニ遭ウモ、9世大如戒厳和尚、20世澄心尭成和尚、22世大籌統伝和尚ノ発願ニヨリ再建修復。 |
2007年10月21日 |
正治年間(1200年)武田氏5代石和五郎信光公ニヨリ創建。当時、真言宗金剛院ト称シ班山々麓ニ所在セルモノ如シ、永正2(1505)年華岳玄桃和尚改宗シテ現山寺号トナル。寛永元(1624)年三枝土佐守公七堂伽藍ヲ建立以来御朱印石高17石甲斐6ヶ寺ノ一にして僧録所及ビ学僧常在ノ禅林ヲ置キタリ。万治2(1659)年、大正10(1921)年再度焼失ノ難ニ遭ウモ、9世大如戒厳和尚、20世澄心尭成和尚、22世大籌統伝和尚ノ発願ニヨリ再建修復。 |
北杜市須玉町東向の信光寺に三枝氏の墓があるとのことで立ち寄ってみました。入口の門を通り越して中に入って行くと大きくて立派な宝篋印塔がありました。更に奥に進むと鐘楼、本殿がありました。お寺の方に声をかけてみると老婆が案内してくれました。三枝氏のお墓の場所を聞いてみたら、お寺の境内ではなくて道路を挟んで反対側の山の中腹にあるとのことでした。場所が分かりずらかったのですがだんだん近づき始め、入口のところでここから入って行っていいのか聞いてみましたが、その方はお墓の存在すら知らないようでした。お寺の人の話では4体あるとのことでしたが、一番右側のものは石で、それ以外は塔の形をしていました。きれいに整備されていました。武田24将の一人に三枝守友という人がいて長篠・設楽原の合戦で討死していますが、三枝土佐守昌吉という人は一族の誰かになるのでしょうか?詳しいことは分かりませんでした。 |
三枝土佐守昌吉の墓
甲斐における三枝氏(さえぐさし)は武田氏よリもはるかに古く、大和代から平安鎌倉にいたりかなりの勢力を持った豪族でした。昌吉は武田信玄に仕え、勝頼滅亡の後は徳川家康に仕えて戦国の世を各所に転戦して殊勲を立て、東向(ひがしむき)の地を支配することとなりました。寛永元年6月9日に死去し東向の信光寺に葬られました。
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