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静岡県三島市

山中城

2005年01月30日

史跡山中城跡
山中城跡は、文献によると小田原に本城のあった北条氏が永禄年間(1558〜1570)に築城したと伝えられる中世最末期の山城である。箱根山西麓の標高580mに位置する自然の要害に囲まれた山城で北条氏にとって西方防備の拠点として極めて重要視されていたが、戦国時代末期の天正18(1590)年3月、全国統一を目指す豊臣秀吉の圧倒的大軍の前に1日で落城したと伝えられている。
三島市は山中城跡の史跡公園化を目指し、昭和48年から発掘調査を行い、その学術的成果に基づく環境整備を実施した。その結果本丸や岱崎出丸をはじめとした各曲輪の様子や架橋、箱井戸、田尻ノ池の配置など、山城の全容がほぼ明らかになった。特に障子堀や畝堀の発見は、水のない空掘の底に畝を残し、敵兵の行動を阻害するという北条流築城術の特徴の一端を示すものとして注目されている。
出土物には槍・短刀をはじめとする武器や鉄砲玉、柱や梁等の建築用材、日常生活用具等がある。なお三ノ丸跡の宗閑寺には岱崎出丸で戦死した北条軍の松田康長をはじめ、副将の間宮康俊、豊臣軍の一柳直末など両軍の武将が眠っている。
(看板資料より)

史跡山中城は小田原に本城をおいた後北条氏が、永禄年間(1560年代)に小田原防備のために創築したものである。やがて天正18(1589)年豊臣秀吉の小田原攻めに備え、急ぎ西ノ丸や出丸等の増築が始まり、翌年3月、豊臣軍に包囲され、約17倍の人数にわずか半日で落城したと伝えられる悲劇の山城である。この時の北条方の城主松田康長、副将間宮康俊の墓は今も三ノ丸の宗閑寺境内に苔むしている。
三島市では史跡山中城の公園化を企画し、昭和48年度よりすべての曲輪の全面発掘にふみきり、その学術資料に基づいて環境整備に着手した。その結果戦国時代末期の北条流の築城法が次第に解明され、山城の規模、構造が明らかになった。特に堀や土塁の構築法、尾根を区切る曲輪の造成法、架橋や土橋の配置、曲輪相互間の連絡道等の自然の地形を巧みに取り入れた縄張りの妙味と、空掘、水堀、用水地、井戸等、山城の宿命である飲料水の確保に意を注いだことや、石を使わない山城の最後の姿をとどめている点等、学術的にも貴重な資料を提供している。
(看板資料より)


出丸御馬場堀

堀内に畝が検出されたことから、西櫓堀、西の丸堀と同様畝堀であったと考えられる。畝の高さは、堀底から約2m、頂部の幅0.6m、馬の背のように丸みを帯び、堀をさえぎるように堀の方向に直角に造り出し、ローム層を台形に堀残して造られたものである。
畝の傾斜度は50〜60度の急峻で、平均した堀底の幅は約2m、堀底から曲輪までの高さは平均9mにも及ぶ。
(看板資料より)


構築途中の曲輪跡

東側(説明板の右手)は御馬場曲輪西堀の堀を掘った時に出たブロック状のロームにより小高い丘のように造られ、北側には土塁が積まれている。遺構らしいものはそれだけであるが、尾根を削り成形しながらここに曲輪を構築すべく工事を急いだ様子がうかがわれる。しかし、時間的に間に合わず、そのまま工事の途中で戦闘に突入したものであろう。ここの整備にあたっては当時のゆるやかな西側への下り傾斜を再現し、構築途中の様子がしのばれるよう配慮した。
(看板資料より)


岱崎出丸

この地は標高547m〜557m、面積2万平方メートルにおよぶ広い曲輪である。地名の岱崎をとり、岱崎城とよばれることもある。天正17(1589)年秀吉の小田原征伐に備えて、各曲輪の修築と共にこの出丸の増築を始めたが、短期間のため完成できず、中途で放棄した様子が発掘の結果諸所にあらわれたのも興味深いことである。
この出丸を守ったのは副将間宮豊前守康俊といわれ、壮絶な戦闘をくりひろげ全員が討死したと伝えられている。その墓は三の丸にある宗閑寺に苔むして建てられており、訪れる人の涙をさそっている。
(看板資料より)


すり鉢曲輪

山中城出丸の最先端を防備する重要な位置にある曲輪である。そのためか曲輪の構築方法も本丸側の曲輪とはまったく異なり中央部を凹ませて低くし中心からゆるやかな傾斜で土塁までたちあがり、中途から傾斜を強め土塁の頂部に達している。上方から見た様子がすり鉢によく似ているところから通称「すり鉢ぐるわ」とよんでいる。このくるわへの虎口(入口)は南につくられているが、更に東側に接続して幅8mの長方形の曲輪が作られており、防備のための「武者だまり」と推定されている。
(看板資料より)


すり鉢曲輪見張台

出丸の先端に位置するこの見張台は土塁上の一角を拡げて土塁と兼用させたものである。すり鉢曲輪南側の樹木を低くすることにより、三島、沼津方面から韮山城まで手に取るように望見できる。見張台直下北側の平坦な部分が堀の跡で未調査ではあるが、試堀の結果、非常に傾斜角が強く、この堀底から見張台までは8m以上もあり、武具をつけた敵がよじのぼることは不可能な状況を呈していた。
(看板資料より)


岱崎出丸「一の堀」

第9次発掘調査(昭和56年度)により検出された一の堀は、出丸全域を鉢巻のようにめぐるのではなく、先端のすり鉢曲輪から西側の中腹を箱根旧街道の空堀まで続くものである。第9次調査では指定地内の約150mの間に、17ヶ所の畝を確認することができた。完堀された一の堀の第3区画はローム層を掘り下げて畝を残し、70度前後の傾斜角をもってたちあがっている。従って堀底からすり鉢曲輪の土塁までは、斜距離18〜20m前後の急峻な勾配がつくわけでる。
(看板資料より)


御馬場北堀

御馬場の西側に構築された深い堀は、南は来光川上流に開いているが北の部分はここの帯曲輪で堀留めとなっている。この西堀と対をなすかのように堀の上幅8mの北堀が発掘の結果検出された。この堀は北にのび、すり鉢曲輪から出丸の中腹をめぐる堀と直交するのではないかと推定される。北側の復元については、未調査部分の中腹の堀が調査されてから検討することになっており、今回の整備では堀の位置さけ示すにとどめた。いずれにしろ御馬場の西堀と北堀の両者で、出丸の尾根を二分しようとする戦略上の意図が察知できる堀である。
(看板資料より)


出丸御馬場跡

山中城の出丸は、通称岱崎出丸と呼ばれ、標高547〜557m、面積2万400平方メートルにおよぶ広大な曲輪であり、天正17(1588)年、秀吉の小田原征伐に備え、急ぎ増築された曲輪である。ここは古くから御馬場跡と伝承され、土塁で東側と北側を守り、西側は深い空掘につづき、南側は急峻な谷で囲まれた岱崎出丸最大の曲輪である。曲輪内は本丸と同様式の二段構築でつくられている。建物跡については確認されなかったが、土塁上からは田方平野を眼下に見渡すことができ、出丸防衛上の拠点であったものと推定できる。
(看板資料より)


三の丸堀

三の丸の曲輪の西側を出丸まで南北に走るこの堀は大切な防御のための堀である。城内の各曲輪を囲む堀は、城の縄張りに従って掘り割ったり、畝を堀り残したりして自然地形を加工していたのに対し、三の丸堀は自然の谷を利用して中央に縦の畝を設けて二重堀としている。
中央の畝を境に、東側の堀は水路として箱井戸、田尻の池からの排水を処理し、西側の堀は空掘として活用していたものである。この堀の長さは約180m、最大幅約30m、深さは約8mを測る。
(看板資料より)


田尻の池

東側の箱井戸と田尻の池とは、一面の湿地帯であったが、山中城築城時、盛土(土塁)によって区切られたものである。山城では水を貯える施設が城の生命であるところから、この池も貴重な溜池の一つであったと考えられる。しかも西側は「馬舎」と伝承されているところから、この地は馬の飲料水、その他に用いられたものと推定される。築城時の池の面積は約148平方メートルであり、あふれた水は三の丸堀に流れ出ていたようである。
(看板資料より)


元西櫓下の堀

城の内部に敵が進入するのを防ぐため人工的に土地を深く掘り下げたものが堀である。堀りあげた土は曲輪の中へ運び、平らにならしたり土塁に積んだりするのに用いられる。
山中城では、曲輪の四周は大体掘で囲まれている。堀の深さと幅とは地形と曲輪の重要度に深く関連している。
また、山中城の堀に石垣が用いられていないということは大きな特徴である。ここは堀底に近いが400年前はローム層が露出し、もっと急斜面であった。
(看板資料より)


土橋

土橋は城(曲輪)の虎口(入口)の前を通路だけ残してその左右に堀を掘って城への出入りの通路としてつくられる。この土橋から西の丸へ入るには、土橋を渡って正面の土塁の下を左へ折れ、西の丸南辺からのびてくる土塁との間の細い上り坂の通路を通り、更にこの二つの食違い土塁に挟まれた通路に設けた木戸を通る。
この土橋は第一の関所であり、また高い方の堀の水を溜めておくための堤防でもある。
(看板資料より)


西の丸

西の丸は3400uの広大な面積をもつ曲輪で、山中城の西方防備の拠点である。西端の高い見張台はすべて盛土をつみあげたもので、ここを中心に曲輪の三方をコの字型に土塁を築き、内部は尾根の稜線を削平し見張台に近いところから南側は盛土して平坦にならしている。曲輪は全体に東へ傾斜して、東側にある溜池には連絡用通路を排水口として、雨水等が集められるしくみである。自然の地形と人知とを一体化した築城術に北条流の一端をみることができる。
(看板資料より)

山中城の建物
西の丸を全面発掘したが、建物の遺構は確認されなかった。この地の開墾耕作で攪乱された可能性が強く、もしあったとしても臨時の小屋程度のものであろう。西櫓跡からは3m×2.6mの柱穴跡が、元西櫓跡からは5.4m×7m位の建物の柱穴跡が検出され、また平らな石等も確認されているので、堀立柱の茅葺きの物置程度の建物はあったであろう。日常生活用具である炊事道具や椀類が出土しないので、寝小屋(根小屋)は他の曲輪にあったと考えられる。
(看板資料より)


西の丸見張台

西の丸見張台は下から盛土によって構築されたものである。発掘の結果、基底部と肩部にあたる部分を堅固にするために、ロームブロックと黒色土を交互に積んで補強していることが判明した。標高は約580mで、本丸の矢立の形をはじめ、諸曲輪が眼下に入り、連絡・通報上の重要な拠点であったことが推定できる。
(看板資料より)


土塁

山中城のどの曲輪も土塁で囲まれている。石垣を使う以前の戦国時代の城は全て堀と土塁が築城のポイントであり、城内の何を隠すか(人・馬・槍等)によって土塁の構築が考えられた。土塁の傾斜は堀に対して急で、内部には穏やかである。このように自然の谷が眼下に迫っている所は、土塁も重厚なものでなく、土留程度のものである。
(看板資料より)


溜池

ここは溜池(貯水池)の跡である。山田川の支流の谷がここまで延びてきていたものを盛土によって仕切り、人工土手を作って深い堀としたものである。
この溜池へ本丸・北ノ丸等の堀水が集まり、また広大な西ノ丸の自然傾斜による排水も、元西櫓の排水も流入するしくみである。深さ4メートル以上発掘したが、池底には達しなかった。
山城の生命は、水の確保にあるといわれるが、貯水への異常な努力をうかがうことができる。
(看板資料より)


元西櫓

この曲輪は西ノ丸と二ノ丸の間に位置し、周囲を深い空掘で囲まれた640平方メートルの小曲輪である。当初名称が伝わらないため無名曲輪と呼称したが、調査結果から元西櫓と命名した。
曲輪内は堀を掘った土を1メートル余りの厚さに盛土し、平らに整地されている。この盛土の下部にはロームブロックが積まれていたが、これは曲輪内に溜まった雨水を排水したり、霜による地下水の上昇を押さえ、表面を常に乾いた状態に保つための施設と考えられる。しかもロームブロック層は溜池に向って傾斜しており、集水路ともなっている。
(看板資料より)


西ノ丸堀

西ノ丸堀は、山中城の西方防備の拠点である西ノ丸にふさわしく、広く深く築城の妙味を発揮しており、堀の末路は谷に連なっている。西櫓と西ノ丸の間は、中央に太い畝を置き、交互に両曲輪にむかって畝を出しているが、西ノ丸の北側では東西に畝をのばして堀内をより複雑にしている。このように複雑な堀の構造は、世に伝えられる「北条流堀障子」の変形であり、学術上の価値も高いものである。
(看板資料より)

西櫓の架橋
西櫓の曲輪を囲む約82メートルの西櫓堀は、ほぼ9メートル間隔に作られた8本の畝によって、9区画に区切られている。第9区画に隣接する一段高い平坦面から4本の柱穴が検出され、この場所に西櫓へ渡る橋が架けられていたことが推定された。日本大学宮脇研究室では右図のような橋の復元図を示されている。
(看板資料より)


西櫓堀

堀内には、ほぼ9メートル間隔に8本の畝が、堀の方向に対して直角に作られている。畝はローム層を台形に掘り残して作ったもので、高さは掘底から約2メートル、頂部の幅は約0.6メートルで丸みを帯びている。畝の傾斜度は50度から60度と非常に急峻である。平均した堀底の幅は2.4メートル、長さは中央で9.4メートル、堀底から西櫓までの高さは9メートルもある。現在は植栽されているが400年前はすべりやすいローム層が露出し樹木は全く無かったので、もし人間が掘りに落ちれば脱出することは不可能だったと推定できる。
(看板資料より)


障子堀

後北条氏の城には、堀の中を区画するように畝を掘り残す、いわゆる「障子堀」という独特の堀が掘られている。西ノ丸と西櫓の間の堀は、中央に太く長い畝を置き、そこから交互に両側の曲輪にむかって畝を出し、障子の桟のように区画されている。
また中央の区画には水が湧き出しており、溜まった水は南北の堀へ仕組みになっている。このように水堀と用水地を兼ねた堀が山城に作られることは非常に珍しく、後北条氏の城の中でも特異な構造である。
(看板資料より)

後北条氏の角馬出
戦国時代の城で2つの虎口(出入り口)と一つの広場が組み合わされたものを特に「馬出」と呼んでいる。
馬出は、戦国時代の永禄年間に完成したと考えられているが、甲斐武田氏の城では、馬出の土塁と堀を丸く造ったので「丸馬出」と呼ばれ、堀が円弧を描くので通称「三日月堀」である。
これに対して、後北条氏の馬出は、その形から「角馬出」と呼ばれている。
西ノ丸から障子堀をこえて、前方に突き出たこの西櫓(広場)を四角(長方形)に造り、それに沿って土塁と堀を巡らしている。防御する時は西ノ丸の虎口を中心に、攻撃に出る時には掘りの外側の広場(西櫓)を起点として、堀の南端の土橋と北端の木橋を用いる。この馬出の築城により、攻める機能と守る機能が明らかに区分された。
(看板資料より)


西ノ丸畝堀

西ノ丸内部に畝が進入することを防ぐため完全に曲輪の周囲を掘によってとりまいている。山中城では場所によって水のない堀と、水のある堀、やわらかい泥土のある堀とに分けられる。この堀の中は、5本の畝によって区画されている。畝の高さは堀底から約2メートル、更に西ノ丸の曲輪へ入るには9メートル近くもよじ登らなければならない。遺構を保護するため、現在は芝生や樹木を植栽してあるが、当時はすべりやすいローム層が露出しているものである。
(看板資料より)


二ノ丸虎口と架橋

二ノ丸は東西に延びる尾根を切って構築された曲輪である。尾根の頂部に当たる正面の土塁から、南北方向に傾斜しており、北側には堀が掘られ、南側は斜面となって箱井戸の谷に続いている。この斜面を削ったり盛土して、山中城最大の曲輪二ノ丸は作られたものであるが、本丸が狭いのでその機能を分担したものと思われる。二ノ丸への入口は、三ノ丸から箱井戸を越えてこちら側へ渡り、長い道を上ってこの正面の大土塁(高さ4.5m)に突き当たり、右折して曲輪に入るようになっていた。
また二ノ丸と元西櫓の間の堀には、橋脚台が掘り残されており、四隅に橋脚を立てた柱穴が検出された。橋脚の幅は南北4.3m、東西1.7mで、柱の直径は20〜30cmであった。復元した橋は遺構を保護するため、盛土して本来の位置より高く架けられている。
(看板資料より)


本丸堀と櫓台

本丸と二ノ丸(北条丸)との間の本丸西堀は、土橋によって南北に二分されている。北側の堀止めの斜面にはV字状の薬研堀が掘られ、その南側に箱堀が掘られていた。堀底や堀壁が二段となっていたので、修築が行われ一部薬研堀が残ったようである。なお、箱堀の堀底からは兜の「しころ」が出土した。
土橋の南側は畝によって8区画に分けられ、途中屈折して箱井戸の堀へ続いている。堀底から本丸土塁までは9メートルもあり、深く急峻な堀である。堀の二ノ丸側には幅30〜60センチの犬走りが作られ、土橋もこの犬走りによって分断されていたので、当時は簡単な架橋施設で通行していたものと思われる。一般的に本丸の虎口(入口)は、このように直線的ではないが特別な施設は認められなかったので、通行の安全上架橋とした。説明版左手の標高583メートルの地に二ノ丸櫓台(東西12メートル、南北10メートル)がありそれを復元した。
(看板資料より)


本丸跡

標高578m、面積1740u、天守櫓と山中城の中心となる曲輪である。周囲は本丸にふさわしい堅固な土塁と深い堀に囲まれ、南は兵糧庫と接している。この曲輪は盛土によって兵糧庫側から2m前後の段をつくり、二段の平坦面で築かれている。虎口(入口)は南側にあり、北は天守閣と北の丸へ、西は北条丸に続く。
江戸時代の絵図に描かれた本丸広間は上段の平坦面、北条丸寄りに建てられており、現在の藤棚の位置である。
(看板資料より)


架橋

発掘調査の結果、本丸と北ノ丸を結ぶ架橋の存在が明らかになり、その成果を元に日本大学の故・宮脇泰一教授が復元したのがこの木製の橋である。山中城の堀には、土橋が多く構築され、現在も残っているが、重要な曲輪には木製の橋も架けられていた。
木製の橋は土橋と較べて簡単に破壊できるので、戦いの状況によって破壊して、敵兵が堀を渡れなくすることも可能であり、曲輪の防御には有利である。
(看板資料より)

北の丸堀
山城の生命は堀と土塁にあるといわれる。北の丸を囲むこの堀は豪快である。400年の歳月は堀底を2m以上埋めているので、築城時は現在より更に要害を誇っていたに違いない。
城の内部に敵が進攻することを防ぐため、この外堀は山中城全域を囲むように掘られ、水のない空掘となっている。
石垣を用いるようになると、堀の両岸はより急峻になるが、石を用いずこれだけの急な堀を構築した技術はみごとである。
(看板資料より)


北ノ丸跡

標高583m、天守櫓に次ぐ本城第二の高地に位置し、面積も1920uと立派な曲輪である。一般に曲輪の重要度は他の曲輪よりも天守櫓により近く、より高い位置、つまり天守櫓との距離と高さに比例するといわれている。この点からも北の丸の重要さがしのばれる。調査の結果、この曲輪は堀を掘った土を尾根の上に盛土して平坦面を作り、本丸側を除く三方を土塁で囲んでいたことが判明した。
(看板資料より)

天守櫓跡
標高586m、天守櫓の名にふさわしく、山中城第一の高地に位置している。天守は独自の基壇を天守台という。基壇は一辺7.5mのほぼ方形となり、盛土によって50〜70cmの高さに構築され、その四周には幅の狭い帯曲輪のような通路が一段低く設けられている。
天守台には、井楼、高櫓が建てられていたものと推定されるが、櫓の柱穴は植樹により攪乱されていたため、発掘調査では確認できなかった。本丸から櫓台への昇降路は基壇より南へ延びる土塁上に、1m位の幅で作られていたものと推定される。
(看板資料より)


矢立の杉

山中城跡本丸の天主櫓に接して植生しており、樹高31.5m、周囲の樹木より一段と高く山中城跡のシンボル的存在である。推定樹齢は500年前後といわれ、植生地はスギの成育の適地であるため樹勢も良好で、目通り4.37m、枝張りは西側へ15m、北東側へ8mも展開し、各枝の葉色もよい。「矢立の杉」の呼称の由来については、出陣の際に杉に矢を射立て、勝敗を占ったためと、「豆州志稿」の中の記述にある。
(看板資料より)


兵糧庫跡

ここは古くから兵糧庫とか、弾薬庫と伝承されていた場所である。中央を走る幅50cm、深さ20cmの溝は排水溝のような施設であったと考えられ、この溝が兵糧庫を東西二つの区画に分けていた。西側の区画からは南面する3間(6.7m)、4間(8.7m)の建物の柱穴が確認された。このことから周辺より出土している平たい石を礎石として用い、その上に建物があったものと考えられる。東側の区画からは不整形な穴が数穴検出され、本丸よりの穴からは硯、坏、甲冑片、陶器などが出土している。
(看板資料より)


兵糧庫跡の柱穴と大きな穴

発掘調査の結果、この西側の区画から約20個の小穴がほぼ東西南北に並んで検出された。これらの穴のほとんどは50cm、深さ20cm程度で、それぞれ2m〜2.2m間隔の列をなしていた。周辺より出土した平たい石を礎石と考えると、これらの穴は建物の柱穴跡と考えられる。また西北隅、土塁寄りに直径1.5m、深さ2.5mの大きな穴が四基並列して検出された。これらの大穴とは全く性格の違うもので、壁面は垂直に整形されており、底面は平らで特に加工はほどこされていなかった。なお、その用途については不明である。
(看板資料より)


 

宗閑寺と武将の墓
東月山普光院宗閑寺(浄土宗)は静岡市の華陽院の末寺。開山は了的上人、開基は間宮豊前守の女お久の方と伝えられている。ここには山中城落城の際、北条軍、豊臣軍の武将たちの石碑がひっそりと佇んでいる。豊前守康俊(普光院殿武月宗閑潔公大居士)兄弟とその一族、城主松田右兵衛太夫(山中院松屋玄竹大居士)、群馬県の箕輪城主多米出羽守平長定らの墓と共に、豊臣軍の先鋒一柳伊豆守直末(大通院殿天叟長運大禅定門)の墓碑がうらみを忘れたように並んでいる。
(看板資料より)


箱井戸跡

ここは古くから箱井戸と伝承されていた所で、発掘調査の結果、箱井戸と西側の田尻の池一帯は湿地帯であったことが確認された。箱井戸と田尻の池の間は、土塁によって分離され、排水溝によってつながれていた。これは湧水量が多く、一段高い箱井戸から田尻の池へ水を落とすことにより、水の腐敗や鉄分による変色を防ぐための工夫と考えられる。箱井戸の水を城兵の飲料水とし、田尻の池は洗い場や馬の水飲み場等として利用していたのであろう。現在、箱井戸には睡蓮が植えられ花の季節(7〜8月頃)には観光客の目を楽しませている。
(看板資料より)

 

 
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