←前のページ トップページ↑ 次のページ→

静岡県沼津市

首塚

2014年01月18日

戦国時代、沼津周辺では小田原北条氏と甲州武田氏の勢力争いが激しく、とくに天正8(1580)年の千本浜の合戦は激戦であった。明治33年、暴風雨で倒れた松の大木の下からたくさんの頭蓋骨が発見され、地元の人たちはこの骨を集め、塚を築き、碑を建て「お首さん」と呼んで手厚く葬った。
人骨はこの合戦の戦死者のものと言い伝えられてきたが、昭和29年、人骨研究の権威鈴木尚東大教授の調査により当時のものと確認された。おびただしい頭蓋骨の数や刀傷の深さから、戦いの激しさがうかがわれ、とくに十代後半の若者の骨の多いことが注目されている。
碑文は旧沼津藩士岩城魁によるが、地元市道町の人々が今も霊を暑く弔い、香花の絶えることがない。
(看板資料より)

 



2005年12月29日

戦国時代、沼津周辺では小田原北条氏と甲州武田氏の勢力争いが激しく、とくに天正8(1580)年の千本浜の合戦は激戦であった。明治33年、暴風雨で倒れた松の大木の下からたくさんの頭蓋骨が発見され、地元の人たちはこの骨を集め、塚を築き、碑を建て「お首さん」と呼んで手厚く葬った。
人骨はこの合戦の戦死者のものと言い伝えられてきたが、昭和29年、人骨研究の権威鈴木尚東大教授の調査により当時のものと確認された。おびただしい頭蓋骨の数や刀傷の深さから、戦いの激しさがうかがわれ、とくに十代後半の若者の骨の多いことが注目されている。
碑文は旧沼津藩士岩城魁によるが、地元市道町の人々が今も霊を暑く弔い、香花の絶えることがない。
(看板資料より)


増誉上人の像

この松原は、天文6(1537)年頃、駿河の今川・甲斐の武田と伊豆の後北条との戦いで無惨にも伐り払われてしまいました。そこへ一人の旅の僧がやって来ました。増誉上人長円です。潮風の害を受けて困窮していた住民を見た長円は、人々を救うために、経文を唱えながら、何年もかかって千本の松苗を植えました。いまの千本松原はこうしてできたもので、増誉上人長円は千本山乗運寺の開祖です。
この増誉上人像は、昭和44(1969)年、「増誉上人顕彰会」が沼津市民から浄財を募り建立したもので、千本浜公園のシンボルとして親しまれ敬われてきましたが、平成16(2004)年12月の強風で折れた松の大木が倒れかかり、像は大破してしまいました。
増誉上人像の復原を願う多くの人々から浄財が寄せられ、ここに修復が成りました。千本松原、天下の名勝として広く知られていますが、増誉上人に感謝の心を表すとともに、この松原をいつまでも大切に愛護したいと思います。
(看板資料より)

千本松原

首塚は本光寺に隣接していました。道路を挟んで海側は千本浜公園で松が生い茂っています。道路は歩道が無くて危険ですから千本浜公園の中を歩いたほうがいいと思います。現地を確認した後、本光寺に行って首塚について聞いてみましたが、首塚とは関係ないとのことでしたが、年に一度供養しているとのことでした。
沼津市のホームページで、「沼津市千本浜の首塚と関東地方の中世日本人頭骨」について詳細が記載されています。

 

 
←前のページ トップページ↑ 次のページ→