群馬県高崎市
源義家の孫新田義重(1116〜1202)の子義範は、この城に拠って山名氏と称し、以降8代山名城を護ったという。 東西450m、巾の最も広いところは二の丸の部分で南北130m、この城は築城法からみて、弓矢だけの時代ではなく鉄砲が使用された時代の普請であることが分かるそうである。南北朝時代信濃南朝方の関東での橋頭堡として、寺尾上城(乗附)、中城(寺尾)と一連の名称で寺尾下城とか前城と呼ばれている。それにもかかわらず、前2城よりはるかに進歩した築城法によって作られているのは、この城が戦国時代になって木部城の要害城として改築されたためである。 (看板資料より)
掘切
この城址は東西450m、最大幅130m、低い方から外郭、三の丸、二の丸、本丸があり、更に西方へ5つの堀切と、3つの小郭が連なる山城で中心は指定史跡となっている本丸と二の丸である。 本丸は55m×35m、空堀と腰郭で囲まれ東の二の丸が本丸の北の帯郭状となっている。二の丸南に80mの堀内道があり西端が追手口となっている。三の丸は東西40mで空堀を隔てて外郭がある。 この城の創築は寺尾中城が造られた頃と推定され、下城または前城と呼ぶのは永禄13(1570)年武田信玄が字城山に創築した根小屋城に対する呼び方で同じ頃この城も実践向きに大改修されたことは全体の構造が複雑化していることで推定できる。またこの城は木部氏の木部城を里城とした要害城として天正18年まで使われていたと考えられる。 (看板資料より)