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群馬県高崎市

下之城

2014年08月03日

和田下之城
和田城主和田業繁(吉景)は、出城として下之城を築き弟信景(正盛)を置いたが、永禄6(1563)年、兄弟とも武田信玄に属した。同12年信玄は北条氏に備えて、倉賀野領の一部を信景に与え、城をこの図のように強化させた。
天正10(1582)年、武田氏滅亡後、正盛隠居し、その子左衛門尉正直がついで北条氏に従い、天正18年、北条氏滅亡と同時にこの城は廃された。
城東の字村松は堀を巡らした初期城下町(根小屋)で、如意寺、徳昌寺の二寺が並び、徳昌寺は、城主信景以下の墓がある。
(看板資料より)

和田城跡の東南3kmにある支城で、当時の主要路は、城北を倉賀野から和田に向かっていた。永禄11年、和田業繁が弟正盛(信景)のために築いたと伝えられるが、城は以前から存在していたようである。武田信玄は旧領二百貫の正盛に二千七百四貫三百文を与えて一方の大将に取り立てた。長篠の戦に討死した和田兵部は正盛ではあるまいか。
小田原の役後、上杉景勝に仕え、関ヶ原合戦後再び浪人し、更には最上義光の家臣となり、二千七百九十五石で出羽国庄内鶴岡城代となった和田左衛門は正盛とされているが別人と思われる。やがて左衛門は最上家の内乱に討死したという。左衛門は正盛の子正直ではあるまいか。
本丸は90m×100m、四面に虎口があって、帯郭に開き、北帯郭に番城山と呼ぶ高さ2.5mの土居が残っていたが、近年崩されてしまった。
(日本城郭大系より)

 



2012年12月24日

和田下之城
和田城主和田業繁(吉景)は、出城として下之城を築き弟信景(正盛)を置いたが、永禄6(1563)年、兄弟とも武田信玄に属した。同12年信玄は北条氏に備えて、倉賀野領の一部を信景に与え、城をこの図のように強化させた。
天正10(1582)年、武田氏滅亡後、正盛隠居し、その子左衛門尉正直がついで北条氏に従い、天正18年、北条氏滅亡と同時にこの城は廃された。
城東の字村松は堀を巡らした初期城下町(根小屋)で、如意寺、徳昌寺の二寺が並び、徳昌寺は、城主信景以下の墓がある。
(看板資料より)

和田城跡の東南3kmにある支城で、当時の主要路は、城北を倉賀野から和田に向かっていた。永禄11年、和田業繁が弟正盛(信景)のために築いたと伝えられるが、城は以前から存在していたようである。武田信玄は旧領二百貫の正盛に二千七百四貫三百文を与えて一方の大将に取り立てた。長篠の戦に討死した和田兵部は正盛ではあるまいか。
小田原の役後、上杉景勝に仕え、関ヶ原合戦後再び浪人し、更には最上義光の家臣となり、二千七百九十五石で出羽国庄内鶴岡城代となった和田左衛門は正盛とされているが別人と思われる。やがて左衛門は最上家の内乱に討死したという。左衛門は正盛の子正直ではあるまいか。
本丸は90m×100m、四面に虎口があって、帯郭に開き、北帯郭に番城山と呼ぶ高さ2.5mの土居が残っていたが、近年崩されてしまった。
(日本城郭大系より)

 

 
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