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長野県信濃町

割ヶ嶽城

2016年04月30日

村上義清の家臣本荘越前守が居城し、上杉方の援軍も入城していたが、永禄4(1561)年、上杉謙信上洛の隙をうかがい、大手より多田淡路守、搦手より浦野民部が一番乗りし、武田方では原美濃守が傷を負ったが攻め勝ち、城将以下多数を討ち取った。
割ヶ嶽城は、武田勢によって破却され廃城となった。
(日本城郭全集より)


本丸

割ヶ岳城跡
割ヶ岳は、柴津の城山ともいわれ、標高767.8m、ふもと集落からは120mほど登る険しい山です。斑尾火山の寄生火山で輝石安山岩でできています。
北には野尻湖から信越国境を望み、東に豊田から飯山、西に柏原、南には三水、牟礼へとつながる交通の要所にあたります。頂上には本丸などがあった7つの曲輪と堀があります。城へ登る大手道もかなり残されていて、信濃町では最も良く残された城跡です。もとは柴津為信という在地領主の城であったといわれていますが、戦国時代には信越の前線にあって重要な軍事拠点となっていたようです。永禄4(1561)年5月には、武田軍に攻め落とされたという記録があり、すぐ後の9月には川中島八幡原の戦いがおこっています。同7年には野尻城の取り合いがありました。
このように割ヶ岳城跡は典型的な中世の山城であり、上杉、武田両軍の戦いのあとを残す重要な史跡です。
(看板資料より)


 

 



2007年05月20日

割ヶ岳城跡
割ヶ岳は、柴津の城山ともいわれ、標高767.8m、ふもと集落からは120mほど登る険しい山です。斑尾火山の寄生火山で輝石安山岩でできています。
北には野尻湖から信越国境を望み、東に豊田から飯山、西に柏原、南には三水、牟礼へとつながる交通の要所にあたります。頂上には本丸などがあった7つの曲輪と堀があります。城へ登る大手道もかなり残されていて、信濃町では最も良く残された城跡です。もとは柴津為信という在地領主の城であったといわれていますが、戦国時代には信越の前線にあって重要な軍事拠点となっていたようです。永禄4(1561)年5月には、武田軍に攻め落とされたという記録があり、すぐ後の9月には川中島八幡原の戦いがおこっています。同7年には野尻城の取り合いがありました。
このように割ヶ岳城跡は典型的な中世の山城であり、上杉、武田両軍の戦いのあとを残す重要な史跡です。
(看板資料より)

今回の史跡探索で朝一番に訪問したのがこの割ヶ嶽城でした。善光寺平はいい天気でしたが北方の雲行きは怪しくなっていました。途中間違えて一つ前のインターチェンジで降りてしまったため予定のルートとは違う道で現地に向かいましたが、山道で風情があって良かったです。そのうち小雨が降りだしてきましたが太陽の光もさしていました。そして野尻湖の方角を見たらきれいな虹が出ていました。虹を見たのは久しぶりでした。「割ヶ嶽城入口」と書かれた看板を発見したので付近に車を止めて看板の指し示している方向に歩いていきました。すると人家の中に入っていってしまうのです。一度出てきて近所の人に行き方を聞いてみたら丁寧に教えてくれました。やっぱり先ほどの民家の庭先を通って行かなければならないのです。民家の裏側にまわってみるとすぐに登山道の入り口が分かりました。歩き出してすぐに幾つかのお墓を見つけることができます。後で聞いて分かったのですがこのお墓は城主のお墓などのようなものではないとのことでした。しばらくなだらかな道を進みますが途中で左側に折れてそこからは登りになりました。

登山道はややわかりづらいところもありましたが基本的に曲がるべきところには案内板があるので道を間違えることはないと思います。案内板には7合目、9合目などの情報も書いてあり、あとどれくらいなのか分かって励みになりました。また途中木が根元から倒れているところがいくつかありそのため登山道がふさがれてしまってるところもあり、それを乗り越えていかなければならず服が汚れてしまいました。
頂上に到着してみると立派な祠と大きな案内板がありました。案内板の先には素晴らしい景色が広がっていました。反対側の方に行ってみると、堀で区切られていて、下をのぞいてみると帯曲輪を確認することができました。登っている最中はただの山なのではないかと思うような地形でしたが、上まで行ってみるとしっかりと縄張りされた山城であることが実感できました。

 
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