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群馬県長野原町

長野原城

2013年01月13日

長野原城本丸址

長野原城跡
長野原街並みの北側の尾根、東西約7百メートルに細長く位置している。本丸、出丸、箱岩で丸、物見台、水の手からなり、それぞれ虎口、堀切り、腰曲輪等で守られている。箱岩出丸は、崖壁に囲まれ目立つため箱岩城の名が起こった。築造年月は明らかではないが、戦国時代吾妻地方は武田方の真田氏と上杉方の斎藤氏の攻防が続いていた。永禄5(1562)年長野原城は真田氏が守っており、翌6(1563)年岩櫃城主の斎藤氏は長野原城攻略に動き、ここにお互いの攻防が続いたが、天正10(1582)年以降どんな変遷を経たか全く不明で廃城の年月も不詳である。
(看板資料より)

秋葉山大神御祭神跡

白砂川・吾妻川の合流点西側、両川に挟まれた尾根上に築かれ、西吾妻の咽喉部を扼している。永禄5(1562)年、岩櫃城の斎藤憲広を降した武田信玄は、この城に真田幸隆の弟常田俊綱(隆永)を置いて固めたが、憲広は翌6年9月、俊綱を倒して城を奪い羽尾・海野の兄弟を入れた。
信玄はただちに兵を発して岩櫃城を攻略し、長野原などを湯本善大夫に与えた。以降、善大夫は武田のために働き、天正3(1573)年、長篠合戦で重傷を負って死去すると、甥三郎右衛門が継いだ。三郎右衛門は真田氏に属し、のちには同心衆三人を付され、合わせて六百三十貫余を知行している。

本城は西端にあり、100mずつ隔てて東に秋葉山出丸・第二出丸・箱岩出丸・第四出丸・物見台と連珠状に続き、一見異形である。秋葉山出丸には三段の腰郭と武者溜りが見られる。本城は中央を掘り切った一城別郭式で、堀切東端の土橋だけで北の本郭と南の別郭が続く。両郭とも東が高く西の低い数段で構成されている。西に開く追手虎口は、二重堀切を土橋で渡る。
(日本城郭大系より)

大堀切

出丸


箱岩の出丸

長野原城「箱岩の出丸」
吾妻川の両岸に広がる王城火山の噴出物の一部がここに露出している。輝石安山岩質の凝灰角檪岩でスコリア質の薄い砂層が間にある。堆積の途中で流水の作用を受けた部分であろう、ほぼ垂直な節理が発達して箱型の岩場を作っている。王城火山群は鮮新世〜更新世にかけて、この附近一帯に生じたもので長年月の侵食で原形を失い吾妻白砂の両川が深く谷を刻み絶壁を作ったものである。
(看板資料より)


井戸跡

箱岩の出丸の下に井戸跡があり、ここから上は急坂で足場が悪く注意が必要である。階段を登り切って左に進むと本丸や秋葉山大神御祭神跡であり、右に行くと半僧坊大権現を経て物見台となる。雪があったため非常に危険な状態であり、物見台へ登るのは断念した。
箱岩の出丸や半僧坊大権現の上にある崖はほぼ垂直であり、到底登ることはできない。全体的に岩が多く、登山途中にもかなり危険な岩が幾つかむき出しており、落石しないように工事が施されていた。

半僧坊大権現

 
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