この城址に最初、館を築いたのは古郡氏です。
古郡氏は小野篁の系統である武蔵七統の一統で、八王子の横山に本拠を構えた横山統の横山権守隆兼の三男三郎左ヱ門忠重が、康治年中に甲斐国都留郡古郡郷の別当大夫となり、古郡性を名乗りました。
古郡郷は、新田・上野原・棡原・西原の地域をさしていますが、古郡氏の勢力は強く、この地域だけではなく、上野原町全体を支配していました。
上野原の諏訪神社には、いまでも古郡神社と刻まれた古い額が掲げられており、同神社は古郡氏がこの地を治めていたときの鎮守であったとも言われています。
建暦3年、三代目保忠のとき、北条義時と和田義盛の合戦があり、和田義盛の夫人が伯母であることから義盛をたすけて鎌倉で戦いました。しかし、敗れて波加利の東(現初狩)競石郷の二木で主だった者は自害して滅亡しました。
その後に入ったのが、武田の家臣加藤氏です。
加藤氏は藤原鎌足の末裔といわれ、源頼朝につかえて手柄をあげ、甲州の玉穂町に領地を授けられました。その後武田氏の客将となり、武田晴信の命によって上野原城に派遣され北条氏の押さえとして在陣し、長峰砦も守りました。
加藤氏は、上野原七騎と共に北条攻めに活躍し、元八王子城を攻略のときの浅川十十里の激戦、相州三増合戦などにおいて大変手柄をたてました。
天正10年3月、勝頼が天目山に逃げるの急を聞き、加藤景忠と長男信景は主君救護のため一族をあげて都下西多摩郡瑞穂町箱根ヶ崎に差しかかった折り、北条の大軍に囲まれ、ほとんどが戦死したともいわれています。また、一説には武田氏の滅亡に不安となり、箱根ヶ崎に落ちて行き、土地の一揆によって滅亡したともいわれています。今も瑞穂町に加藤神社や円福寺には多くの遺品が残されています。
(看板資料より) 古郡左衛門尉保忠の館跡で方一町(約109m)ある。この辺はかつて古郡郷と称していたので、古郡を家号とする。建暦3(1213)年5月に保忠が討たれ、古郡を加藤兵衛尉に与えた。これにより加藤氏がこの辺を領したけれども、天正10(1582)年に加藤氏が滅び、ついに廃跡となったと伝えられる。西は鶴川の流れに臨み、北に大堀があり、南方一帯は高い岸になっており、その一端が島田村に接する。
(山梨県の武田氏伝説より)
消防本部で場所を尋ねたら丁寧に教えてくれました。消防員の話によるとジョッパゲという所にお稲荷さんがあってそこに上野原城のことについて説明板があるとのことでした。ジョッパゲというのは外城と書いてそう読むのだそうです。現地に行ってみると確かにお稲荷さんがあって説明板もありました。中央高速のすぐ横で城の遺構も見つけることはできませんでした。偶然通りがかった老人に上野原城のことについて聞いてみると、郷土史に興味を持っている方だったこともあり城の遺構などはないことを教えてもらいました。
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