「長峰の史跡」説明版
「長峰」とは鳶ヶ崎(鶴川部落の上)から矢坪に至るまでの峰を指す呼び名ですが、戦国時代に上野原の加藤丹後守が、その出城というべき砦をここに築いたことから、いつかはこの付近だけを長峰と呼ぶようになりました。
丹後守は武田信玄の家臣で、甲斐国の東口を北条の侵略から守るため、この砦で監視しました。
ここは、当時の交通の要所であり、要害な地であるばかりでなく、水にも恵まれていました。砦の北側は仲間川に面して崖となり、南面には陣門と呼ぶ木の柵を立てて守りを固め、常に番兵が見張りに当たっていました。
柵の東側に「濁り池」、その西北部に「殿の井戸」と呼ぶ泉がありました。
「濁り池」は、いつもどんより濁っていたので、こう呼ばれていましたが、一般には「長峰の池」で通っていました。約100平方メートルの小池で、どんな干ばつにも枯れたことはありませんでした。池の中にヒシという水草が群生していたことも有名でした。
「殿の井戸」は、きれいな水がこんこんとわき、日照りのときでも絶えなかったといわれていました。おそらく、領主が出かけた折、好んでこの水を飲んだことから、こう呼ばれたのでしょう。
側にある石碑は、この地域の獅子門俳諧の門下、日野の花岳寺16世八峰が、芭蕉と芭蕉門十哲の一人獅子庵支考(蓮二房)の句をそれぞれ刻んで建立したものです。
現在、この史跡の真ん中を中央高速道路が通っています。
上野原教育委員会
(看板資料より)
伝えられるところによれば、この砦は天正年中(1573〜92)に武田家の家臣の加藤丹後守が築いたものだという。-(『甲斐名勝志』)
(山梨県の武田氏伝説より)
野田尻と東大椚の境の鳶ヶ巣という所にある。官道のかたわらの少し高い所で、上は平地で北方に堀切がある。陣鐘などを置いて敵の襲来を告げた所であろう。-(『甲斐国志』2-395)
(山梨県の武田氏伝説より) |