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長野県上田市

上田原古戦場公園

2009年10月
04日

武田信玄が率いる常勝武田軍団が敗れた戦いが、上田の地で二度ありました。それが北信濃に総力をもつ村上義清との間に行われた、天文17(1548)年の上田原合戦と天文19(1550)年の砥石城の戦い(砥石くずれ)です。両戦いとも武田方に多くの犠牲を出しましたが、特にこの付近で行われた上田原合戦では、板垣信方、甘利虎泰などの重臣が戦死しました。また、村上方も屋代源吾、雨宮刑部、小島権兵衛などの武将を失いました。周辺には今も武田方、村上方の武将の墓と伝えられる五輪塔や石積みが残っています。
(看板資料より)

 



2003年08月
15日

「古戦場公園」の「古戦場の由来」
戦国時代に諏訪・佐久地方をほぼ平定し、北信濃への進出を企てていた甲斐(現在の山梨県)の武田晴信(信玄)が、坂城の葛尾城を本拠地とし上田・小県地方にも勢力を延ばしていた村上義清と天文17(1548)年に上田原合戦におよんだ。
武田晴信(信玄)は産川東方の倉升山に陣を構え、村上義清は産川下流の西方の天白山(須々貴山)を背に陣を敷いたと伝わっている。合戦は主として現古戦場公園を含む下之条から上田原付近で行われ、浦野川や産川を境として激戦が展開された。地の利を得た村上方は優勢に戦いを進め、武田方は板垣信方などの有力な武将をこの地で失い、大将の晴信も手傷を負い敗退を余儀なくされた。武田晴信(信玄)にとって数少ない負けいくさのひとつである。
(看板資料より)


小島権兵衛の墓
屋代源吾の墓
雨宮刑部之墓
無名戦士の墓
伝板垣駿河守信方の墓
観音寺 
石久摩神社(上田原古戦場碑)
信玄道

 

 
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