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長野県上田市

塩田城

2005年09月
24日

現地の看板の資料によると塩田城は上の石碑のところから登り、発掘地点、三島神社、そして古井戸跡がある虎の口付近から北条国時の墓付近までとのことでした。しかし今回はその上に続く険しい山道を経て弘法岩まで行ってしまいました。弘法岩までの険しい道は久しぶりの信州の山城としてはあまりにも登り応えのあるものでした。ちなみに頂上の弘法岩までは40分近くかかりました。台風の影響もあったのか、頂上に着いてすぐに雨が降り始めたので急いで下山しましたがたいした雨にはなりませんでした。


古井戸跡

虎の口と言われる付近は石垣跡などがあって少し開けていましたが、その一番奥の場所に上の写真のような古井戸跡がありました。

石垣跡

この城跡は、北端160メートル、中央の最広部180メートル、南北700メートルに及ぶ広大な地籍である。その北方に古い町割(本町・立町)が南北700メートル・東西210メートルにも及ぶ典型的な侍屋敷跡を残している。
城跡は、中央の巨大な内堀跡(長さ180メートル・幅21メートル)を境として北半地域(南北230メートル・東西170メートル)と南半地域に分けられる。北半域はほぼ平地で、西部に堀跡がわずかに見られ、また当時の政庁のあった所と推定されるわずかな区画の跡がある。南半地域は、北方より七ヶ所の帯郭が続いており、その南には更に続いて幅30メートル程の小帯郭14ヶ所を経て、通称虎の口と言われている2小郭が展開し、さらに6ヶ所の極めて小さい郭を経て、北条国時の墓と称する墓石のある400平方メートルの小郭に至る。ここは城跡の最高部である。又虎の口と言われている所は過去3回(昭和43・44・45年)にわたり学術調査をし、戦国時代以前のものである石垣や石垣跡・井戸などが発見されている。
(看板資料より)

石垣跡


北条国時の墓

古井戸跡の小郭から更に上に登っていくとまた少し開けたところがあって幾つかの石碑が立ち並び、北条国時の墓と書かれた案内がありました。大木が倒れていて危険でしたがその大木を乗り越えて右の方に行くと更に上に続く山道を見つけることができます。


弘法山への道

北条国時の墓から弘法山までの道は上の写真のような岩を登るところもあれば、岩を避けるために岩の横を回り込まなければならないところもあり、木の枝につかまらなければなりませんでした。先日購入したクライミンググローブはこういう所を登るために必要なのですが、車の中に置いてきてしまいました。

弘法山

頂上には大きな岩が幾つも立ち並び、中には今にも倒れてしまいそうな不安定な岩もありました。一番上の岩には上の写真のように石仏がありました。雨が降り始めたので急いで下山しましたが、途中道に迷ってしまい危うく遭難しかけましたが落ち着いてなんとか道を見つけ出して下りてくることができました。


三島神社

一番上の写真の塩田城跡の石碑のところから登り、発掘地点を過ぎて少し行ったところで、右側に行くと塩田城、左に行くと三島神社と書かれた案内が出てきます。三島神社の方に行ってみるとすぐに上の写真のような神社がありました。

 



2003年08月
15日

塩田城跡の図

長野県指定史跡塩田城跡
塩田城は鎌倉時代中期(建治3年:1277)鎌倉幕府の重職であった北条義政がこの地に移り、館を構えたことから始まる。義政の子国時、その子俊時と三代にわたり約60年、塩田北条氏と称し、信濃の一大勢力としてこの地方を統治し、また幕府内部でも活躍した。
元弘3(1333)年鎌倉幕府の運命が危うくなったとき、この塩田北条氏は「いざ鎌倉」と一族あげて支援にかけつけたが奮戦空しく幕府と共に滅亡した事情は「太平記」に詳しい。
その後この地方は信濃の雄村上氏の領有するところとなり、村上氏は重臣福沢氏をここにおいて統治させた。再び塩田城は政治の中心地として重要な役割を果たしていたが、天文22(1553)年甲斐の武田信玄に攻められ落城した。
信玄はこの塩田城の戦略上の重要性に注目し、特に飯富氏等の重臣をこの城に置き、自らも時々ここに滞在して東信濃の拠点とした。信玄の子勝頼もそれにならったので、この城は天正10(1582)年武田氏が没落し、真田氏が上田城を築くまで約30年間この地方の軍政両面の拠点であった。
このような歴史上の重要性にかんがみ上田市では、昭和50年から3年間にわたり塩田城の発掘調査を実施したが、その結果種々の貴重な遺構、遺物が発見された。
それらの成果に基づく最近の研究によれば、北条氏時代の館はこの集落の入口(小字竹の内)あたりにあったらしく、村上・武田氏の時になって山腹から頂上にかけて城が築かれたもののようである。指定地域からその周辺にかけて東西200メートル、南北700メートルに及ぶ築城の跡が明らかに残り、県内最大級の中世城館跡として知られている。
(看板資料より)

雨の中、上の写真の塩田城の碑の前に車を止めて登り始めましたが、三島神社の入口のところまで来たところで道が川になって足場が悪くこれ以上は登れないと判断して断念しました。上には北条国時の墓や虎口、石垣などがあるらしいのですが次回来る時の楽しみにとっておくことにしました。

 

 
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