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長野県上田市

信玄道

2014年09月
28日

天文17(1548)年2月、甲斐(現在の山梨)を出発した武田晴信(後の信玄)は大門峠、砂原峠を越え、倉升山のすその御陣ヶ入畑に陣を敷いた。
いっぽう村上義清は天白山のふもとの塩田川原に、産川を前にして陣をかまえた。
2月14日、晴信は義清の陣に向け昔からあった道を通って出撃し、激戦となる。この合戦を『上田原合戦』といい、武田軍は重臣板垣信方をはじめ甘利備前守虎泰、初鹿根伝右衛門尉その他の武将を失い、村上軍も屋代源五基綱、小島権兵衛、雨宮刑部らが討死したが、この合戦は武田軍の敗北であった。
戦いで敗れた武田軍は、石久摩淵台上でようやく陣を立て直し、旗塚一帯で両軍は再度戦うも決着がつかず、村上軍は室賀峠を越えて葛尾城に退く。
この戦いに使われた道を、ここ上田原では以前から『信玄道』と言い伝えている。
(看板資料より)

 



2009年10月
04日

天文17(1548)年2月、甲斐(現在の山梨)を出発した武田晴信(後の信玄)は大門峠、砂原峠を越え、倉升山のすその御陣ヶ入畑に陣を敷いた。
いっぽう村上義清は天白山のふもとの塩田川原に、産川を前にして陣をかまえた。
2月14日、晴信は義清の陣に向け昔からあった道を通って出撃し、激戦となる。この合戦を『上田原合戦』といい、武田軍は重臣板垣信方をはじめ甘利備前守虎泰、初鹿根伝右衛門尉その他の武将を失い、村上軍も屋代源五基綱、小島権兵衛、雨宮刑部らが討死したが、この合戦は武田軍の敗北であった。
戦いで敗れた武田軍は、石久摩淵台上でようやく陣を立て直し、旗塚一帯で両軍は再度戦うも決着がつかず、村上軍は室賀峠を越えて葛尾城に退く。
この戦いに使われた道を、ここ上田原では以前から『信玄道』と言い伝えている。
(看板資料より)


屋代源吾の墓
小島権兵衛の墓
伝板垣駿河守信方の墓
雨宮刑部之墓
無名戦士の墓
石久摩神社(上田原古戦場碑)
観音寺 
上田原古戦場公園

 

 
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