長野県上田市
天文17(1548)年2月、甲斐(現在の山梨)を出発した武田晴信(後の信玄)は大門峠、砂原峠を越え、倉升山のすその御陣ヶ入畑に陣を敷いた。 いっぽう村上義清は天白山のふもとの塩田川原に、産川を前にして陣をかまえた。 2月14日、晴信は義清の陣に向け昔からあった道を通って出撃し、激戦となる。この合戦を『上田原合戦』といい、武田軍は重臣板垣信方をはじめ甘利備前守虎泰、初鹿根伝右衛門尉その他の武将を失い、村上軍も屋代源五基綱、小島権兵衛、雨宮刑部らが討死したが、この合戦は武田軍の敗北であった。 戦いで敗れた武田軍は、石久摩淵台上でようやく陣を立て直し、旗塚一帯で両軍は再度戦うも決着がつかず、村上軍は室賀峠を越えて葛尾城に退く。 この戦いに使われた道を、ここ上田原では以前から『信玄道』と言い伝えている。 (看板資料より)
→屋代源吾の墓 →小島権兵衛の墓 →伝板垣駿河守信方の墓 →雨宮刑部之墓 →無名戦士の墓 →石久摩神社(上田原古戦場碑) →観音寺 →上田原古戦場公園