←前のページ トップページ↑ 次のページ→

静岡県森町

鵜殿渕

 
2013年12月31日

鵜殿藤五郎光成戦没之地

天正2(1574)年4月、徳川家康は兵2千を率い、犬居城を指して信州街道を北上した。一の瀬より大久保、田能を経て、気田川のほとり、犬居の瑞雲寺に本陣を張った。たまたまその夜から雨が降り出し、折からの梅雨時で激しい雨は2日2夜降り続いた。気田川は増水して各所で氾濫した。
徳川軍は、帰路の悪化と腰兵糧の事態を考え、軍議の末、信州街道を一の瀬さして撤退することになった。
一方、犬居城の天野軍は、武田方の軍監、謀将真田昌幸の指揮のもと、一旦は気田に退いていたが、徳川軍の動きをいち早く察知するや反撃に転じ、猟師姿の兵を山林内に出没させ、撤退する家康軍におそいかかった。
徳川軍の武将は善戦したが、不案内な地形と山岳戦に手をやき、敗走を続けた。ついにこの一の瀬で徳川方の武将「鵜殿藤五郎光成」は戦死をどげた。時に天正2年4月6日であったと「三河物語」は伝えている。
(看板資料より)

 


 
2008年03月22日

鵜殿藤五郎光成戦没之地

戦国夢街道の史跡は車で回ろうと思っていたのですが、戦国夢街道の入口を発見してしまいそこは階段になっていて車で行くことは無理でした。少し離れたところにある駐車場に車を止めて歩いて行きました。ハイキングコースのうち一番短いコースでも4kmくらいあるとのことで気合を入れました。戦国夢街道の入口のところには大きな馬のオブジェクトがありました。馬の足元には「鵜殿藤五郎光成戦没之地」と書かれた小さな石碑がありました。そしてその先には鵜殿渕の説明案内板がありました。

天正2(1574)年4月、徳川家康は兵2千を率い、犬居城を指して信州街道を北上した。一の瀬より大久保、田能を経て、気田川のほとり、犬居の瑞雲寺に本陣を張った。たまたまその夜から雨が降り出し、折からの梅雨時で激しい雨は2日2夜降り続いた。気田川は増水して各所で氾濫した。
徳川軍は、帰路の悪化と腰兵糧の事態を考え、軍議の末、信州街道を一の瀬さして撤退することになった。
一方、犬居城の天野軍は、武田方の軍監、謀将真田昌幸の指揮のもと、一旦は気田に退いていたが、徳川軍の動きをいち早く察知するや反撃に転じ、猟師姿の兵を山林内に出没させ、撤退する家康軍におそいかかった。
徳川軍の武将は善戦したが、不案内な地形と山岳戦に手をやき、敗走を続けた。ついにこの一の瀬で徳川方の武将「鵜殿藤五郎光成」は戦死をどげた。時に天正2年4月6日であったと「三河物語」は伝えている。
(看板資料より)


戦国夢街道入口

戦国夢街道
森町と通るこの道は、古くから遠江国(静岡県)と信濃国(長野県)を結ぶ「塩の道」です。森町は、山中一円の物資の集散地であり、「森口・二俣口」は重要な山中への玄関口でありました。戦国時代には多くの武将が森の市場を重要視し、これより続く塩の道は物資の交易に欠くことのできない重要な街道でありました。
天正2(1574)年、徳川家康は武田方天野氏の居城「犬居城」を攻撃しますが、大雨により気田川が増水し進軍ができず、兵糧も尽き退却を余儀なくされます。軍勢を引き上げる途中、徳川軍は天野氏の追撃を受けます。三倉山中が険しい道であり、悪戦苦闘の末、家康は命からがら逃げのび、天方城にたどり着くことになります。この戦いは徳川軍にとって多くの武将を失う散々な負け戦さでありました。今も武将の霊を弔う幾つかの塚やこの戦いの言い伝えが残されています。
また、この道は江戸時代には火伏せの神秋葉山への表参道として「秋葉街道」と呼ばれ、多くの道者が行き交う「信仰の道」でもあり、秋葉常夜灯や道標などに今も面影を伝えています。
自然と歴史が残されたこの山や原野は、今から約400年前多くの武将が必死となって戦った場所であり、武将たちの夢にちなみ、この道を「戦国夢街道」と名づけ、自然に親しみながら歴史を散策いただけるようハイキングコースとして整備しました。ここに残された自然と歴史を堪能してください。
(看板資料より)

 

 
←前のページ トップページ↑ 次のページ→