七人塚 |
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この塚は、今を去る四百有余年前、戦国の世に散った武将達の眠る供養の塚です。天正2(1574)年4月徳川家康は、自ら兵を率いて武田方の天野氏の居城「犬居城」を攻めました。折節、一両日の大雨で気田川は増水し、城攻どころか、ついには兵糧がつき一戦も交えず撤退を余儀なくさせられたのでした。一方この状況をいち速く察知した天野軍は、直ぐ様反撃に転じ、田能・大久保の「峨々たる岩石の細道」、しかも雨後の悪路の中を三々五々撤退する徳川軍に、地の利を生かして襲いかかったのです。徳川軍は深い林や森の中から矢を射られ砲火をあびせられたのです。応戦しようものなら雲を霞と深い森や岩陰に姿を消してしまうのです。
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戦国夢街道入口から遊歩道を登り始めましたが、しばらく登っていくと明らかに車でも走れる道路に出ました。やっぱり車で行くことができるにちがいないと思い、歩いていくことはやめて登ってきた道を降っていきました。そして戦国夢街道の地図に載っている七人塚を探しました。まだ朝早い時間だったのでなかなか地元の人に会うことができずにいましたが、ちょうど商店の裏の小高い所に小さな石碑を発見しました。七人塚と書かれているのがわかり登ってみました。商店の横にも七人塚の説明看板がありました。 この塚は、今を去る四百有余年前、戦国の世に散った武将達の眠る供養の塚です。天正2(1574)年4月徳川家康は、自ら兵を率いて武田方の天野氏の居城「犬居城」を攻めました。折節、一両日の大雨で気田川は増水し、城攻どころか、ついには兵糧がつき一戦も交えず撤退を余儀なくさせられたのでした。一方この状況をいち速く察知した天野軍は、直ぐ様反撃に転じ、田能・大久保の「峨々たる岩石の細道」、しかも雨後の悪路の中を三々五々撤退する徳川軍に、地の利を生かして襲いかかったのです。徳川軍は深い林や森の中から矢を射られ砲火をあびせられたのです。応戦しようものなら雲を霞と深い森や岩陰に姿を消してしまうのです。
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