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静岡県森町

田口家の屋敷跡

 
2013年12月31日

田口家の墓

田口家の家紋二つ葵
中野のここ半明(昔は家康にちなみ半命)に、昔から長く続いた田口家という旧家がありました。この田口家の家紋は、徳川家の三つ葉葵ならぬ「二つ葵」という珍しい家紋です。この二つ葵が田口家の家紋となった経緯はm実は戦国の時代の徳川家康とのかかわりに端を発すると伝えられています。
田口家に伝わる話では、元亀3(1572)年の暮、三方原の戦いで家康は武田勢に惨敗したのです。その時追われて、この半明まで逃げて来て、田口家の裏山の森の玉の木(和名・タブノキ)の空洞に身を隠し、武田方の探索を逃れたということです。
しかし、家康がこの地を敗走したのは、むしろ天正2(1574)年の犬居城攻めではなかったと、田口家の人々も、この点に疑問を抱いております。むしろその方が信憑性があるように感じられます。
どちらにしても、その時助けられて立ち去る時に家康は、「余が天下に号令するようになった時は、遠慮なく申し出よ。今日の事は生涯忘れぬ。その証として家紋は二つ葵とするがよい。」と厚く礼を言ったということです。
その後、田口家では二つ葵の紋とし、今でも使われています。また、裏山の森を権現森とよんでいます。
(看板資料より)

 


 
2008年03月22日

田口家の墓

七人塚の次は田口家の屋敷跡と権現森をめざしました。戦国夢街道のハイキングマップで行き方を確認すると白髭神社の先にある赤い橋を渡っていくとのことでした。確かに赤い橋があったので橋を渡ってまた登り坂を登って行きました。すると再び道路に出てしまいました。結局ここも車で来ることができるようでした。ハイキングコースのマップを見ているのでどうしても歩かされてしまうのですね。とりあえず説明文が書かれた看板を見つけたのでそこからまた下って白髭神社まで来ました。パンフレットをよく見直してみると、田口家の墓が載っていたので再び行ってみることにしました。今度は車で行ってみました。お墓のある家は留守のようでした。

田口家の家紋二つ葵
中野のここ半明(昔は家康にちなみ半命)に、昔から長く続いた田口家という旧家がありました。この田口家の家紋は、徳川家の三つ葉葵ならぬ「二つ葵」という珍しい家紋です。この二つ葵が田口家の家紋となった経緯はm実は戦国の時代の徳川家康とのかかわりに端を発すると伝えられています。
田口家に伝わる話では、元亀3(1572)年の暮、三方原の戦いで家康は武田勢に惨敗したのです。その時追われて、この半明まで逃げて来て、田口家の裏山の森の玉の木(和名・タブノキ)の空洞に身を隠し、武田方の探索を逃れたということです。
しかし、家康がこの地を敗走したのは、むしろ天正2(1574)年の犬居城攻めではなかったと、田口家の人々も、この点に疑問を抱いております。むしろその方が信憑性があるように感じられます。
どちらにしても、その時助けられて立ち去る時に家康は、「余が天下に号令するようになった時は、遠慮なく申し出よ。今日の事は生涯忘れぬ。その証として家紋は二つ葵とするがよい。」と厚く礼を言ったということです。
その後、田口家では二つ葵の紋とし、今でも使われています。また、裏山の森を権現森とよんでいます。
(看板資料より)

 

 
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