←前のページ トップページ↑ 次のページ→

長野県長野市

天宗寺


2007年05月20日

由衣姫(武田勝頼の母)の母の墓

大岡村の天宗寺に由衣姫(武田勝頼の母)の母の墓があるとのことでしたので今回寄ってみることにしました。千曲市の屋代から現地に向かったのですが大岡村というのはすでに無くなっていて長野市になっていました。この日は少し寒かったのですが、現地に到着したらかなり冷えていて上着が必要なくらい寒かったです。駐車場に車を止めたら庭の手入れをしていた方が気にかけてくれたようでしたがそのままお寺の方に入っていきました。
大きな桜の木がありました。あまりにも大きいので本堂の全景が見えませんでした。本堂右側からお寺を訪ねました。しばらくして女性の方が出てきてくれました。由衣姫の母の墓の場所を聞いてみたら快く対応してくれました。本堂左側奥の方に連れて行ってくれました。そこにはいくつかの墓がありましたが、そのうち一番大きな墓石が由衣姫の母の墓とのことでした。墓石には読み取れるような文字は残されていないとのことでしたが、確かに近くで見ても文字は確認できませんでした。お墓を案内してもらった後にこの周辺に大岡城という城がないかどうか聞いてみたところこのお寺が大岡城跡だったとのことでした。お墓の奥の方には堀が残されているとのことでした。その後再び本堂前に戻ってきました。由衣姫の母の墓のことが書かれている資料もしくはこのお寺のパンフレットがあったら譲ってほしいとお願いしたところ、お寺のパンフレットを頂くことができました。


天宗寺の合掌桜

天宗寺は天正3(1575)年に建立され、その記念に2本のしだれ桜が本堂前に植えられたと伝えられています。以来、風雪にまた火災にも耐えて寺の歴史と共に今日にいたりました。2本の桜は共に育ち、春には清楚な花をつけ、枝を伸ばして、たがいの枝先を合わせるほどになりました。
敬虔な檀信徒が本堂に向って合掌する姿と重ねあわせて、いつからか人々はこの2本の桜を天宗寺の合掌桜と呼ぶようになりました。
(看板資料より)


今より七百数十年前文応年間に香坂宗清が移封されてこの地に来り仏門に入り法覚と号し、法香庵を創立す。その後武田信玄内室菊御前の中興により伽藍を建立し寺縁を附す次に芋川越前守親正来り聖雲山天宗寺と改め七堂伽藍を完備す然しながら以降数度の災害にあい明治初年に至りようやく本堂を再建す。昭和9年風害に依り倒壊した庫裡は再建され今日に至るも50年を経て老朽はなはだしいため昭和59年6月総代会に提案し改築の議決を得尚檀徒世話人会を開催し了承を得る。続いて各地区懇談会を催し亦改築委員会を組織し126名の委員に於て分担しこの大事業を推進す。
(石碑記載文章より)


空掘跡

見学を終えて車に乗り込もうとしたら、先ほど庭の手入れをしていた方が声をかけてきてくれました。きっとこの方がこのお寺の住職だと思います。武田家の史跡めぐりをしているという話をしたら、堀を見せてくれるとのことで現地まで案内してもらうことにしました。先ほどの由衣姫の母の墓よりもう少し奥のほうでした。
かなり大きな空掘跡で驚きました。堀は武田流といわれている三日月堀でした。牧之島城にも三日月堀が残されているお話や、大岡城を構築する際には牧之島城から馬場信春が来て指揮をとったとのことでした。由衣姫の母のことについても、川中島の合戦が行われたころにはすでにこの地に来ていたとのことでした。

 

 
←前のページ トップページ↑ 次のページ→