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静岡県牧之原市

滝境新

2004年05月01日

滝境城は元亀2(1571)年武田信玄が馬場美濃守に命じて築いた山城です。牧之原台地の東南につき出た所で、海を見下ろす高さ約70メートルの丘の上にあります。
東・南・西の三方は急な崖で、北側には空壕が深く掘ってあり、城のまわりには土塁が築いてあります。勝頼が高天神城を攻めた時、この城は大そう役に立ったといいますが、天正10(1582)年に落城しました。
(看板資料より)


ここが滝境城(新城)の本丸大手口の空壕跡です。この城は元亀2(1571)年2月武田信玄が高天神城を攻めるため、馬場美濃守氏勝に築城させた。勝頼はこの城を有力な基地とした。天正10(1582)年落城まで11年間武田・徳川の攻防戦に重要な役割を果した山城です。
(看板資料より)


一度看板のところに車を止めて歩いて行きましたがこれなら車でもいかれる!と判断して車で行きました。神社の右側の道を車で進みましたが道幅が狭くて大変でした。城跡の入口に車を止めて見学しましたがもちろんUターン不可。そのまま茶畑の方へ突入していきました。茶畑道は軽トラ仕様なのでもちろん車の側面は引っかき傷だらけとなったのでした。

相良城の資料館のおじさんの話によると、滝境城には古城と新城があるとのこと。古城は規模が小さいために新城を建てたとのことでした。古城には行きませんでしたが新城から少し南側にあるらしいです。地元ではジョウの原と呼ばれていて、丘陵山頂に一の曲輪があり、自然の地形を利用した空壕を隔てて二の曲輪があるとのことでした。

滝境新城はかなり険しい断崖に取り囲まれていて驚きました。

車を止めた所


滝境城を登って茶畑を通り過ぎたところが法京というところですがここに伝説の里案内板がありましたので紹介します。

伝説の里案内板
法京原観音堂
観音堂に安置されたる両秘仏は、明治時代にこの地を開墾した川口氏が地中より掘り出したる秘仏で霊験あらたかなり。両秘仏共、武田・徳川の戦で此地を離れるに当り、此地の人たちが地中に財貨と共に埋めたと伝えられている。
伝説三題
鍋蓋様
元亀2年、武田信玄、高天神城を攻略して天下に覇を唱えんとして、先づ法京に滝境城を築く。信玄公、築城間も無き頃、城外見分に出て此地で敵の残兵に追われ危うき所、此の地の民家の納戸に匿まわれ、難を逃れた。信玄公、此の民家の主人の気転を賞し、恩賞を与えんとして矢立ちを取ったが手元に紙料なく同家の鍋蓋に目通りの地を与えると認めたと言われている。
注連飾りをしない家
武田信玄の高天神城攻撃が始まるや、徳川方より此地の地侍にも城に参るべく大号令が発せられた。此地の大石氏、武田に着くか徳川に参るか二つに一つしか道なく、密に一族郎党ひきつれて高天神城に入る。
此時あたかも大晦日、此地では各家御注連飾りをしてお正月を迎えるが、急なること極まりなし。その暇なく出征した。此大事を後世に伝えるべく、大石氏とその一族、その意を伝えて、その子々孫々今も御正月に注連飾りをしないという。
目通り八町
元亀・天正と、武田軍の高天神城への包囲攻撃は熾烈を極め、幾度かの合戦が行われたが、天正2年武田勝頼、二万五千の兵を牽き連れ猛攻を重ねた。城方は待ち望む徳川本隊の援軍来らず、兵糧も尽き矢弾も尽きて武田方に高天神城を開城した。城兵達西に散り東に散り大石氏の一族郎党朗々の身となり諸国を流れた。
天正9年、勢いを取り戻した徳川軍の反攻は凄まじく、武田軍は玉砕して果て漸く此地に平和が戻る。諸国に散っていた一族郎党、我が墳墓の地たる故郷に、徳川方より高天神の役の賞として、目通り八町を安堵されたという。大石・原間・水野諸氏、子々孫々此地を開墾して現在に至る。
(看板資料より)

 

 
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