一ノ瀬義法氏の「武田信玄終焉地考」によると、阿智村の長岳寺には「信玄の火葬場」というものが伝えれているとのことでした。以下同本より文章を抜粋します。
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ここには「武田信玄公伝説火葬塚」と書かれた檜の高さ3mぐらいの角材が建てられていますが、今は文字も見えなく、ただ3m四方の土がこんもりとして、周囲には松の大木が立ち並んでいるばかりです。土地の人はここで信玄を荼毘に付したのだと伝えており、だれいうとなしに信玄塚と呼ばれるようになったということです。
この塚を昭和13年に山上八郎氏及び石塚青我画伯の諸氏が調査されたそうです。モウソウ竹の節を抜いて、塚の真ん中に打ち込み、抜いてみたところ、赤土の中のある部分に黒土を認め、この黒土を当時の商工省に届けて鑑定を得たところ、「骨ぷんを認める」という回答があったといいます。
(長岳寺住職の話)
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現地への行き方は「武田信玄終焉地考」に詳しく書いてあるのですが、今回は持ち合わせていなかったため、まず長岳寺に行ってみました。
お寺の方に行き方を教えてもらいました。小学校と神社の間の狭い道を登っていくのだそうです。一度行ってみたのですが途中まで案内板などもあったのですが途中でなくなってしまい分からなくなってしまいました。再び麓まで戻ってきて地元の方に聞いてみると、山の上にあるとのことで、今から登ると夜になってしまうとのことでした。
しかしそれで大体の場所が分かりました。もっと上まで登らないといけなかったのでした。車は中央高速を通り過ぎたところに止めてそこから歩きました。途中貯水池もありました。約10分ほどで到着することができました。
私が行った時は上の写真のように「武田信玄公火葬塚」と書かれた立派な案内板があり、その裏に塚のようなものがありました。
一ノ瀬義法氏は「武田信玄終焉地考」の中で、
「この火葬場で武田方の者が事実火葬にされているとするならば、それは信玄の火葬場ではなく、長篠の戦いの大敗で負傷して来て、道中で亡くなった武田方の士卒たちを火葬にしたものであろうと思われます」としています。
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