武田信道および家臣供養塔並びに屋敷跡 |
都史跡 |
武田信道及び家臣供養塔
武田信玄の孫、信道夫妻とその子信正は、元和元(1615)年、先に処罰された甲州代官大久保長安に関連有りとされ、連座の罪で大島に流された。信道は寛永20(1643)年に大島で没し、信正は寛文3(1663)年に赦されて、48年目に一族と共に内地に帰った。信道の妻「まま」、同行した9名の家臣のうち5名は大島で没した。野増墓地には大島で没した信道夫妻と家臣の供養塔があり、屋敷跡は野増の町中にある。「武田信道及び家臣供養塔並びに屋敷跡」として昭和31年3月3日、東京都の史跡に指定されている。 野増の七人様はこれと関係ありと思われる石塔2基があって史実を現しているようではあるけれども、時代も人物も判明しないので伝承として取り扱った。これについては多年にわたり考察につとめてきたが未だにスッキリした結論に到達しない。 武田信玄の次男信親は武田勝頼の時代に入ってからはその関係が悪かったらしく、自領の河原部郷の年貢の籾子を納められなかったため、甲府へすみやかに送るよう、厳重な注意を受けている。もし納めなければ成敗するとまで書かれているから、信親が勝頼を軽視していたらしい様子さえ読み取れる。いずれにしても天正10年武田氏は亡び、信親もまた甲府市住吉の入明寺に入って割腹自殺を遂げた。年齢は42歳だった。
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武田信道屋敷跡
前日に大島町の郷土資料館に連絡してから訪問した。当日は同資料館の樋口秀司氏に出迎えて頂き、資料館内で各種資料を頂くと共に武田信道公の供養塔等について説明してくれました。それによると、野増の「武田信道及び家臣供養塔」についてはもともと武田信道に関わる証拠が無く、東京都教育委員会が石碑を建ててしまったために都の史跡になってしまったとのことでした。現場にある説明文にも8人の家臣と書いてありますが、実際は9人だったとのことで次の通りとのことです。 地元の方による考察の結果、これが武田信道の供養塔ではないとしても、武田信道夫妻及び9人の家臣が大島に流されてきたことは事実であり、その記念碑として残されているわけであり今後も大切に残して欲しいと思いました。 供養塔がある場所から、元町方向へ少し行ったところに武田信道の屋敷跡という場所があり、同じく樋口氏に案内してもらいました。大島一周道路沿いに灯台があって向かいには大黒屋というお店があるので目印になると思います。
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→入明寺
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