武田神社(武田氏館跡、躑躅ヶ崎館跡) |
2013年09月01日 |
国指定史跡武田氏館跡 |
発掘された武田氏館大手
大手東側には惣堀と土塁で囲まれた曲輪の存在が確認されています。曲輪内の広場のうち上段部では、惣堀に架かる北側土橋の曲輪側から石階段が発見され、その下段に付設されている南側土橋では門礎石が確認されています。 史跡武田氏館跡大手門周辺ゾーン |
大手石塁
大手門を守るための櫓や塀などの建物の基礎と考えられ、中央と南側の2箇所に階段が設けられている。発掘調査では、東側と南側の石積が良好な状態で出土したが、西側は基底部の石のみ、北側においては完全に消滅していた。そのため本整備においては発掘遺構に加え古絵図などを基に石の積直し・復元を行った。 大手石塁 大手石塁と三日月堀 大手三日月堀 |
惣堀・土塁
武田氏館跡東側一帯を囲い込むように伸びる堀と土塁を総称して惣堀・土塁と呼んでいる。大手石塁の周辺には整備前から土塁が残されており、土橋に挟まれた場所は、一時宅地化された際に破壊されたことが明らかになった。本整備においては、発掘調査で確認された基底部の遺構を基に土塁の形態を復元した。 土塁・惣堀の復元 |
惣堀北側虎口
武田氏館の正面玄関にあたる大手東側一帯には惣堀と土塁で囲まれた曲輪が形成されたことが明らかとなっています。惣堀には整備前から古道である鍛冶古路に面して南北2箇所の土橋が架けられていました。土橋は、貞享3(1686)年の古府中村絵図(武田神社蔵)に描かれているので、江戸時代前記にはすでに存在していたようです。 土橋・虎口石階段 |
厩跡平面表示
武田氏館跡の大手門を守備するために築かれた大手石塁の南側で発掘された建物跡は、地面に柱を埋めて建てられた堀立柱建物跡である。建物中央に位置する3基の長方形の柱穴からは、柱を据えるための礎板が出土し、これまで武田氏館跡の調査事例でも類例がなく、柱配置も戦国時代では特殊な間隔が採用されている。 厩橋
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2013年06月29日 |
【御祭神】 武田晴信命(信玄公) |
武田神社本殿
要害城の眼下に広がる館の東側に延びる尾根にはツツジの花が咲き乱れ、信玄が遊覧のため亭を造ったという。今はその面影はないがこれにちなんで館は躑躅ヶ崎館と呼ばれる。この館は国史跡で保存整備が進められている。 |
菱和殿
甲陽武能殿
武田氏館跡は大きく分けると東・中曲和と西曲輪からなります。東・中曲輪は現在一つの曲輪となり武田神社が鎮座し国の史跡として整備されています。大手門の外側の馬出しも整備されていました。 |
武田氏館跡西曲輪北側枡形虎口
土塁で囲まれ、門で仕切られた空間が一升枡の形をしています。2箇所の門も意図的に位置を変えて敵の侵入の勢いを削ぐ形態になっています。 |
武田氏館跡西曲輪北側枡形虎口南門
西曲輪の内側に位置する南門は、北門に比べて土塁先端部分の石垣や間口の規模が大きく、門の構造自体も違っていたと考えられます。
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2004年08月14日 |
武田氏館跡(躑躅ヶ崎館跡) 奇木『三葉の松』 |
躑躅ヶ崎館(武田氏館)跡 |
武田神社拝殿
宝物殿にて風林火山の旗を特別展示していました。風林火山の旗は以前雲峰寺で聞いたときの話では、雲峰寺に4つ、恵林寺に1つ、民間人が1つもっているということであり、武田神社に風林火山の旗があるという話は聞いていませんでしたので宝物殿の受付の人に聞いてみました。彼女の話では最近どこからか奉納されたものとのことでした。民間人が武田神社に寄付したのでしょうか? 念のため別の場所でも風林火山の旗について聞いてみましたがそこでは、風林火山の旗は以前から武田神社にあったものを今回特別展示しているとのことでした。出所が不明の風林火山の旗でしたが、雲峰寺や恵林寺のものよりかなり古めかしいものでした。 |
信玄公御使用井戸
姫の井戸のお水
この水は境内「姫の井戸」のお水です。「姫の井戸」は躑躅ヶ崎屋形の内でも其の生活の中心となる場所に有り、一説によると信玄公の御息女誕生の折、産湯に使用した事に因り「姫の井戸」と名付けられたとも云い、また「茶之湯の井戸」とも言われ、この井戸より発見された茶釜等の品々が現在宝物殿に展示されており、当時の生活を推測する貴重な資料であるとともに、この茶釜は勝頼公(信玄公継嗣)が京よりの客をもてなす茶会の折使用した茶釜とも云われており、屋形内で茶を点てるときにはこの井戸の水を使ったと伝えられております。 |
武田水琴窟
土中に底を小さな穴をあけた甕(かめ)を埋め、そこにわずかな水を流す。水はその穴から水滴となって落ち、甕の中で反響し、琴の音にも似た澄んだ音色を地中に響かせる。一つの音文化の極致である。江戸期、文化文政の時代に庭師によって考案されたこの技術は、茶室のつくばいや庭先の手水鉢に設えられ、数奇者たちに愛でられた。昨今は「癒し」の音として注目を集めている。 |
お屋形様の散歩道
戦国時代の大名の住まいを屋形といい、室町将軍家が認めた格式の高い大名を特に「お屋形」と呼ぶようになりました。この散策路の名称は、武田氏の館(屋形)に住んだ信玄がお屋形と呼ばれたことから名づけられました。 |
御隠居曲輪南スポット公園
1999年09月05日 躑躅ヶ崎館という武田家の本拠地だったところだが、入口だけは立派だけど特に何も無い。石垣の跡や館の周りの堀の様子が残っているくらいである。昔来たときはたしか有料トイレがあったはずであったが今回は無かった。トイレはすごくきれいだった。結婚式もできるらしいので結婚をお考えの方はいかがですか? |
1984年03月29日 |
甲斐の名将武田信玄をまつってあります。この館は永正16(1519)年武田信玄の父信虎の造ったもので、信虎、信玄、勝頼の三代63年間にわたる館跡でつつじが崎の館と呼ばれています。信玄の詠歌「人は城 人は石垣 人は堀 情けは味方 仇は敵なり」との歌でわかる通り、信玄には城も石垣もいらず偏小な館で十分であったろうと思われます。
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