武田氏館 |
2005年01月22日 |
平安時代末に、八幡太郎義家の弟新羅三郎義光は、常陸国へ進出を図ったが、那珂川以南の地がすでに常陸平氏の支配下にあったため、長男の義業を久慈郡佐竹郷(常陸太田市)に、三男義清を那賀郡武田郷(勝田市武田)に配置して那珂川以北に勢力の扶植をはかった。 |
義清・清光父子
武田氏館案内 ひたちなか市武田は、戦国時代の名将・武田信玄で知られる甲斐武田氏の発祥の地です。平安時代末期(12世紀初め頃)、源義家の弟義光は、常陸国への進出を図り、長男義業を久慈郡佐竹郷(常陸太田市)に、三男の義清を当市域の那賀郡武田郷に土着させました。義清は地名をとって武田の名字とし、武田氏の始祖となりました。また、義業の子・昌義は、中世・戦国期に常陸国に君臨した佐竹氏の祖となりました。 館の特色 |
常陸の国司が申すには、清光という住人が、でたらめで乱暴をはたらき、争いごとなどを起こして困っているなどと訴えてきた。詳しいことは別紙「目録」に記されている。 |
12世紀始めごろ、新羅三郎義光の三男、刑部三郎義清が拠った居館の跡は、常陸国那賀郡武田郷(ひたちなか市武田)の南端に位置し、東南方向に舌状に突き出た台地上にあった。武田台地は、ほぼ平坦であるが、東側と西側には深い谷津が入りくんでいる。 ひたちなか市域の南側を流れる那珂川は、肥沃な沖積地を形成し、流域に幾多の恩恵をもたらし続けている。この那珂川の左岸台地上に位置する武田地域内には、先土器時代から今日にいたる多くの人々の生活の営みを示す遺跡が存在している。特に、近年、武田地内における発掘調査は、多くの重要な成果をあげ、はるか数万年前の先土器時代から縄文・弥生・古墳・奈良・平安の各時代にかけての原始・古代における数々の貴重な遺構・遺物が発見されている。特に先土器時代の遺物は、今からおよそ25,000年前ごろ茨城県下でも最古と考えられる石器群が出土している。また、古墳時代から奈良・平安時代にかけての住居跡は数百基におよび、広大な集落が営まれていたことがうかがい知れる。これらの貴重な資料は、豊かな自然と地形に恵まれた郷土の歴史を物語っている。甲斐武田氏の祖、義清・清光父子もこのような地理的環境に恵まれた武田の地に館を構え、勢力の拡大を図ろうとしたものと考えられる。 |
配流の命を受けた義清・清光父子は、住みなれた武田の地を早急に離れなければならなかったであろう。おそらく常陸国から甲斐国への道筋は、ここ武田の地より那珂川をさかのぼり、現在の御前山村を経て、栃木県小山市近郊、入間郡を直線的に山梨県下に進んで行ったものと思われる。 |
武田氏館の場所は分かりづらかったのですが付近を歩いていた方に聞いてなんとかたどり着けました。館跡は湫尾神社の裏側にありました。立派な建物が整備されていて門をくぐると右側に管理棟のようなものがあって管理人がいました。拝観料は不要とのことでしたが名前だけ記載するように言われました。反対側には厩があって実物大の馬の模型もありました。建物の内部は中央の部屋に義清、清光の人形及び資料などが置かれ、その周りの廊下には説明文などがあって、中央の部屋に入ると説明が始まるのですが音が小さくて何を言っているのか全く分かりませんでした。管理棟にいた方にここ以外に周辺に武田の史跡はないかと訪ねましたが、そういうものはここにしかないとのことでした。
|