名将信玄を出した甲斐武田氏発祥の地
源頼義の長子八幡太郎義家の弟新羅三郎義光は、後三年の役(1083〜1087)に際し兄義家軍への参加や、常陸介に任ぜられて東国常陸への赴任を通して、早くから在地勢力と提携し、常陸大掾平氏と縁戚関係を結んで、常陸進出の野望を着々と実現していった。義光には、義業、実光、義清、盛義、親義らの数子があったが、まず、長子義業を、常陸国久慈郡佐竹郷(常陸太田市)に土着させ常陸進出の拠点とした。
一方、三男の義清を常陸国吉田郡武田郷(勝田市武田)に配して勢力の扶植をはかった。ここが甲斐武田氏発祥の地である。
義清は刑部三郎と称し、武田郷の地名をとって初めて武田氏を名乗り武田冠者と呼ばれた。この義清が甲斐武田氏の始祖となったのである。
「武田系図」によると、義清は上野介源兼宗の女を妻とし清光をもうけている。「長秋記」によれば、大治5(1130)年12月30日の条に「常陸国司、住人清光濫行の事などを申すなり、子細目録に見ゆ」と記されている。12世紀初めの武田郷周辺の地は在地豪族の間でお互いに勢力を張り合っていたが勢力拡張をあせる義清、清光父子にゆき過ぎの行為があった。そのため吉田郡地方に隠然たる勢力をもつ常陸大掾の族吉田清幹らに疎外され、「清光濫行」として告発された。その結果、義清、清光父子は告発された直後甲斐国市河荘に配流となった。
義清の曾祖父頼信、祖父頼義、父義光と三代にわたって甲斐守に任ぜられ、清和源氏と甲斐とは密接な関係にあった祖父ゆかりの地に土着し、新天地を開いて甲斐源氏発展の基盤を築いた。名将武田信玄は義清から18代目にあたる。
(看板資料より)
|