高島城は天正18(1590)年、豊臣秀吉の部将、日根野織部正高吉によって設計され、文禄元(1592)年着工、慶長3(1598)年に完成した。この高島城は、諏訪湖と数条の河川が周囲をめぐり濠の役をつとめ、諏訪湖の波が城の石垣に迫り「諏訪の浮城」と呼ばれ慶長6(1601)年初代藩主諏訪頼水から10代藩主諏訪忠礼に至る270年の間、諏訪氏の居城としてその威容を誇ってきた。
明治4(1871)年廃藩置県となり、明治8(1875)年廃藩置県によって天守閣は撤去され、翌明治9(1876)年5月高島城址は「高島公園」として一般に開放された。
朝夕の「時の太鼓」が鳴らなくなって100年、諏訪の住民の「高島城」に寄せる愛着は強く、昭和45(1970)年春、ここに「高島城」は復興された。
(看板資料より)
高島藩の起こりとあらまし
天正10(1582)年3月、諏訪を支配していた武田勝頼が織田信長に滅ぼされ、諏訪は信長の家臣川尻秀隆の領地になったが、本能寺の変を機に、諏訪上社の大祝であった諏訪頼忠が支配者となり、徳川家康の配下になった。天正18(1590)年小田原の北条氏滅亡後、諏訪頼忠は、家康に従って武蔵(現埼玉県)に移り、ついで上野(現群馬県)に移った。
この時諏訪は、豊臣秀吉の家臣日根野高吉の領地になった。高吉は天正19(1591)年、この地に城を築くことを決め、翌文禄元年に着工、慶長3(1598)年ころ高島城が完成したと考えられる。
関ヶ原の戦いの後、慶長6(1601)年に高吉の子、日根野吉明は、下野(現栃木県)に移され、上野にいた諏訪氏が諏訪に戻り、初代高島藩主となった頼水以降10代、明治維新までここを居城とした。
2代忠恒は、将軍秀忠から「忠」の字を賜り、それまで諏訪氏名前に用いてきた「頼」の字に替えて「忠」を代々用いるようになった。3代忠晴時代には藩の体制が出来上がり、4代忠虎、5代忠林は文化的業績を多く残している。6代忠厚のころには社会も変動し、逼迫した藩の財政再建を発端に「二之丸騒動」と呼ばれる御家騒動が起こり、藩政の転換期を迎えた。8代忠怒期には、老中松平定信の娘烈姫(清昌院)が輿入れするなど落ちつきを取り戻した。9代藩主忠誠は幕府の老中などの要職を勤めたが、10代忠礼のとき明治維新を迎え、明治5(1872)年、高島城も破却されることになった。
(天守閣内説明資料より) |