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長野県諏訪市

有賀城

2014年05月18日

天文年中(1532〜1555)に有賀備後守は武田氏に属した。ある日、備後守が武田氏の密事を木曽義昌に告げたので、武田信玄は大いに怒り、板垣信方をして彼を塩尻峠で殺させた。このため有賀氏は滅んだ。時に天文15(1546)年のことである。ここにおいて信玄は原美濃守虎胤に伊那口の要衝としてこの城を守らせた。
(長野県町村誌・長野県の武田信玄伝説より)


主郭

有賀城跡
有賀城は、尾根の先端を切り込んで主郭を設け、そこから北と東北に延びる尾根及び、南方尾根続きに対して遺構を展開させている。
主郭に相当する曲輪1は、東西約20メートル、南北約37メートルの規模を持つほぼ長方形に近い形をした曲輪で、西、南面及び東面の一部に高い土塁が設けられている。特に南面の土塁は主郭を構築する時に地山を削り残して作られたものと思われ、高さが曲輪内から4〜5メートルにも達する規模を持ち、南方尾根続き方面から主郭内を看透かされないように配慮されている。この土塁の内側には石垣で固めた細い段が左右に二段ずつ設けられている。この土塁上には秋葉権現の碑が立っており、これらの段もその祭祀の必要上設けられた可能性があり、石垣も城の遺構と即断することは難しい。
(看板資料より)

本郭の下


竪堀


堀切


横堀


竪堀


土塁


副郭


三の曲輪


四の曲輪


五の曲輪


本郭からの諏訪湖



2007年04月15日

天文年中(1532〜1555)に有賀備後守は武田氏に属した。ある日、備後守が武田氏の密事を木曽義昌に告げたので、武田信玄は大いに怒り、板垣信方をして彼を塩尻峠で殺させた。このため有賀氏は滅んだ。時に天文15(1546)年のことである。ここにおいて信玄は原美濃守虎胤に伊那口の要衝としてこの城を守らせた。
(長野県町村誌・長野県の武田信玄伝説より)

主郭

有賀城跡
有賀城は、尾根の先端を切り込んで主郭を設け、そこから北と東北に延びる尾根及び、南方尾根続きに対して遺構を展開させている。
主郭に相当する曲輪1は、東西約20メートル、南北約37メートルの規模を持つほぼ長方形に近い形をした曲輪で、西、南面及び東面の一部に高い土塁が設けられている。特に南面の土塁は主郭を構築する時に地山を削り残して作られたものと思われ、高さが曲輪内から4〜5メートルにも達する規模を持ち、南方尾根続き方面から主郭内を看透かされないように配慮されている。この土塁の内側には石垣で固めた細い段が左右に二段ずつ設けられている。この土塁上には秋葉権現の碑が立っており、これらの段もその祭祀の必要上設けられた可能性があり、石垣も城の遺構と即断することは難しい。
(看板資料より)

竪掘

有賀峠は諏訪湖の少し南側にある峠で、諏訪から辰野に行くことができる峠です。山道を登りはじめてすぐに左側に有賀城跡と書かれた看板を見つけることができると思います。水路にかかっている橋(城裏橋)を渡ってから少し歩くと鳥居のようなものがあってそこをくぐると「有賀城→」と書かれた看板が出てきます。あとは要所要所に看板があるので道に迷うことなく主郭まで行くことができると思います。主郭には一番高いところに石碑があって秋葉大権現と書かれていました。また、主郭に行くと案内板があるので、城跡の全容を知ることができます。全体を歩き回ってみると、山城を構成する要素がほとんど出てきます。そして丁寧に看板が置いてあって整備されている様子がよく分かりました。山城の中には本来の地形なのか人間が手を加えた地形なのか判断に悩むものも多いのですがここは明らかに人間が手を加えて城として工事をしたということがよく分かる城でした。
本丸から奥の方に行ってみると深い谷になっていてこれが竪掘でした。これを越えて再び登っていくといくつかの竪掘が存在しその先には鉄塔がありそこから引き返してきました。本丸の周辺には深い堀があって手前に下ってくると副郭、三の曲輪、四の曲輪、五の曲輪と続き、そこから今度は西側にある堀を歩いて主郭に戻ってきました。

土塁

空掘

主郭からの景色


副郭

三の曲輪

四の曲輪

五の曲輪

 
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