高梨氏城館跡 |
2016年04月30日 |
甲越争乱はこの地方にも波及し、高梨氏の身辺にもその影響が及んできた。すなわち武田晴信(信玄)は佐久方面から信濃に深く侵入し、村上・小笠原氏らの信濃の雄族もすでに長尾景虎(謙信)を頼って越後に逃れていた。長尾氏と深い姻戚関係にあった高梨政頼も身辺に武田勢の手が伸びると中野の地にわずかの守備兵を置いて自らは飯山城へ退去した。当時飯山城には高梨氏と縁故があった泉氏が入っており、長尾氏の庇護のもとにその後しばらく共同で両氏は飯山城の守りについた。弘治年間(1555-58)前後の頃のことである。 |
小館は長方形を呈しており、堀敷を除いて東西約110m×南北約80mの規模を有している。周囲に土塁がめぐらされており、最も高いところで高さ約3.5m、低い所で約1mである。 |
長野県史跡高梨氏城館跡 |
高梨館跡公園庭園址について |
高梨氏館跡の建物跡と庭園跡 |
2004年10月17日 |
長野県史跡高梨氏城館跡 |
土塁と築地塀 |
高梨館跡公園庭園址について |
高梨氏館跡の建物跡と庭園跡 |
場所が分かりづらく周囲の狭い道を一周してなんとか正面の駐車場にたどり着くことができました。館跡は思ったより立派で周囲を土塁と堀で囲われていて、山梨県勝沼町の勝沼氏館跡くらいかやや大きめの規模のような感じでした。現地の案内板によると詰めの城としての鴨ヶ嶽城が紹介されていたので車で行けるとことまで行ってみましたが、途中で場所を聞いた老人によると歩いて1時間〜1時間半はかかるとのことであり、今後まだ訪問地も多く予定していたので、今回は鴨ヶ嶽城に行くのは断念しました。車を止めたところからは、黒姫山、戸隠、妙高山などがきれいに見れました。
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