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長野県中野市

壁田

2016年04月30日

壁田城址公園健康つくりコース案内図

中野市の北部には千曲川を背後にして長丘丘陵が連なっているが、壁田城はその中でもひときわ高く、飯山から中野・替佐方面を一望することができる山頂にある。
戦国時代末期の甲越合戦時代に至ると、上杉方の飯山口の守備に対する武田方の最前線として重要な拠点であった。伝承では千曲川対岸の替佐城と共に小幡上総介を城将とするといわれるが確証はない。
永禄9年9月、武田信玄は山田飛騨守・同佐衛門尉に壁田・田麦・寿徳寺の地を宛行なっており、彼らが壁田城の守備についたものと推定されている。
城域の東側は中野扇状地に面した急崖となっており、西側は千曲川が城山の麓を取り巻いて流れ外堀の役目を果たしている。南東の山麓には「根小屋」「くるわ清水」などの地名が残っており、文字通り根小屋(居館)のあった所と推定される。
(日本城郭体系より)

壁田城跡
往古は、火置田と書いて、奈良朝の蝦夷経略時代の狼煙台のあった所と言われる。中世には、高梨氏の山城として重要な拠点となっていた。壁田神社のある所が本郭でその前後にいくつかの掘割も残っている。
(看板資料より)

 



2004年10月17日

壁田城址公園健康つくりコース案内図


壁田城山のイヌザクラ

イヌザクラはバラ科サクラ属の落葉高木で別名シロザクラと呼ばれています。イヌザクラは日本各地に分布していますが、北信地方では珍しく、壁田城山には指定木のほかに2本みられます。花は極めて小さく20〜30穂状につける総状花序で、色は白く、普通のサクラとは趣を異にしています。また、開花時期は、5月中旬から下旬頃です。
このイヌザクラは胸高幹囲3.46メートル、樹高約20メートル、推定樹齢は200年といわれ、幹が2本に分かれ寄り添った形は、地元の人々から「夫婦桜」とも呼ばれ親しまれています。
(看板資料より)


壁田城跡
往古は、火置田と書いて、奈良朝の蝦夷経略時代の狼煙台のあった所と言われる。中世には、高梨氏の山城として重要な拠点となっていた。壁田神社のある所が本郭でその前後にいくつかの掘割も残っている。
(看板資料より)

今回出かける前の事前調査の段階で壁田城という城跡があることは知っていましたが、当日の史跡めぐりルートからはすっかり忘れ去られていたのです。しかし飯山から中野に向う途中、北陸新幹線の工事中の高架橋を通り過ぎて最初の交差点で偶然赤信号で止まったときに信号機の下に壁田の交差点名が書いてあるのを見つけて壁田城の存在を思い出しました。
千曲川が蛇行しているところにある山で付近を走行中に城山入口等の看板を見つけましたが、車を置く場所が見当たらないのでしばらくウロウロしました。偶然出あった方に壁田城への行き方を聞いたら、お寺の横の道を弁天広場まで車で登って行くことができ、そこからは歩いて行くしかないとのことでした。
弁天広場への道は舗装はされているものの、道幅は狭く路肩も弱そうなので慎重な運転が必要です。弁天広場はなかり広々としており、私が登って行った道以外に2つの道路(車道)がありました。
のぞみ坂と書かれた案内板のところの登山道のような道を登っていくと壁田城跡にたどり着くことができます。しばらく登っていくと途中蜘蛛の巣が多くあって大きな蜘蛛が待ち構えていますので慎重に前を見ながら進みます。神社の手前にイヌザクラがあり、立派な看板もありました。この付近に曲輪のようなものもありましたが、階段を登って神社があるところが本丸のようです。これで終わりかと思っていると、神社の奥の少し下ったところは公衆便所やブランコなどがある公園になっており祠もありました。その先にも大きな堀切で仕切られて曲輪がいくつかあり、思ったより遺構が残っていて大きな規模の城跡でした。

 

 
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