神社の境内にお地蔵さんをお祀りすることはめったにありません。「神明地蔵尊」はその例外で、大変珍しいといわれています。永禄8(1565)年、このお宮は「高松神明宮宝性院」といい、神官はいません。最初の社僧、宥玉法印(伝燈法師位法印大僧都宥玉)は山之内(右京区)からお入りになり、その後約三百年間、明治元年の「神仏分離令」まで、社僧がお祀りをしていたのです。
「神明地蔵尊」は寛政6(1794)年、「高松神明宮宝性院」(真言宗東寺宝菩提院の末寺に属していた)の社僧が紀州九度山の「真田庵」(高野山真言宗宗伽羅陀山善名称院)に毘沙門天と共に安置されていた二体の地蔵尊のうちの一体を拝領して参り、同年6月、神殿の東側に三間四面の地蔵尊を建てました。
智将で知られる真田幸村の念持仏でありましたので、「幸村の知恵の地蔵尊」としてお祀りしました。大変美しいお姿の半跏坐像のありがたいお地蔵さんは、多くの参詣者から信仰され、活況ある境内となりました。
約50年後の天保11(1840)年10月、東西二間南北三間半、切妻破風の屋根の地蔵堂に建て替えました。元治元(1864)年7月、蛤御門の変により、当社も罹災しました。
境内の稲荷神社、不動明王、弘法大師、金毘羅神社等と一緒に地蔵堂も焼失しましたが「神明地蔵尊」のみがご無事でありました。明治になって神仏混淆が禁止され、宝性院は廃寺となり、高松神明神社だけが残りました。廃仏の憂き目にあわなかった「神明地蔵尊」は、社務所内でずっとお祀りを続けていましたが、明治26(1893)年、本殿の西側の現在地に地蔵堂を建てて、お祀りをするようになりました。
地蔵堂正面の台石をさすって、子達の頭をなでますと、智将幸村にあやかり、知恵を授かる御徳がございます。地蔵尊にお供えをいただいた洗米と小豆を蓄えておいて、地蔵堂に小豆粥としてお詣りのみなさまに供養したと伝えられています。
(看板資料より) |