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京都府京都市

信長首洗い池


2016年02月21日

蓮臺山由緒略記によりますと、当時の阿弥陀寺の住職清玉上人は、本能寺の変を聞き、大恩ある織田家の一大事と僧を引き連れ本能寺に駆けつけたが、明智の軍勢が四方を囲み寺内に入れず裏道より辛うじて入った。
しかし、お堂は炎上中、信長はすでに割腹自殺したとのこと、遺言に「光秀に遺骸をわたすな。」とあったが周囲を敵に囲まれ不可能、しかたなく傍らの竹林で火葬をしていた。それに出会った清玉上人は、[自分と信長公とは、格別の間柄であるので火葬は勿論将来の追悼もする。あなた方は自害するより敵と戦ってはどうか」と申し出たところ、武士たちは大いに喜び敵と切り結んでいるうちに火葬を終え、白骨を法衣に包んで、本能寺の僧徒らがにげるのに紛れ込んで脱出し、阿弥陀寺へ持ち帰ったとあります。
由緒略記にあるように、寺内の一隅で火葬を行い白骨にすることには疑問があります。最新式の重油焼却炉で千度以上の火力でさえ完全に骨にするには一時間二十分かかり、蒔などを用いる昔式の野辺の送りだと、骨にするのに一晩はかかるはずです。そうすると、あの[白骨を法衣に包んで」のくだりは時間的に少々無理で、おそらくその人の象徴である「首級だけを法衣に包んで」本能寺の僧らに紛れて脱出、阿弥陀寺での方角は本能寺の北東ですから、そこから五十メートル東方に清水を満々に湛えた池があれば、ひとまず灰や血にまみれた信長の首級を洗って綺麗にしたのではないでしょうか。そして『信長首洗池』という名称が残ったのではないかと思われます。
(京都逓信病院ホームページより)

 

 
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