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京都府京都市

本能寺


2016年02月21日



信長公廟
信長が光秀の謀反により無念の自刃を遂げたのは天正10(1582)年6月2日早朝のことだった。本能寺の変である。そのころ当寺は四条西洞院にあり四町四面の広大な寺域、周囲に堀と土塁その内部に七堂伽藍や多くの子院や厩舎を備えるという城郭構えになっていて信長が常宿するにふさわしい都で随一の大寺院であった。
この大伽藍が烏有に帰し光秀の天下も十数日で終わった後、信長の三男信孝は信長らの燼骨収集の作業をすすめ、本能寺の変から一ヶ月後の7月3日早くも本能寺を父信長の墓所と定めた。
この信長の墓はこのとき信孝が建立したものである。この廟所には武将の魂とされる信長所持の太刀が納められている。
(看板資料より)

 

 
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