四郎作古戦場
小宮山内膳友晴(友信)は武田家の重臣小宮山丹後守昌友の長男として出仕し、御使番十二人衆の一人として活躍していたが、奸言によって勝頼の勘気を蒙り幽閉の身となった。
天正10(1582)年3月、主家勝頼の危急存亡の時と察知した友晴は累代の恩を忘れることなく落ち行く勝頼一行を追い、土屋惣蔵の仲介により勝頼の許しを得て軍に加わり、最前線である四郎作の地に陣を構えて攻め寄せる敵と奮闘の後、最後まで主君をお守りし殉じたと伝えられている。
後世幕末、水戸の儒学者藤田東湖は「正気歌」で「或殉天目山幽囚不忘君」と、友晴を称えている。
(大和村の文化財より)
四郎作古戦場の由来
小宮山内膳友晴(友信)は武田の重臣小宮山丹後守昌友の長男として武田氏に仕え諸国への使い番十二人衆の一人に数えられ武田軍政に重きをなしていた。天正3年の長篠合戦以後武田軍の中枢は重臣たちによって司られていたが小宮山内膳はその折々軍のため率直に意見を述べた。重臣たちはこれを快しとせず理非をわきまえずにこれを否定し遂に讒言により主君の勘気を被り蟄居を命ぜられ幽閉の身となった。しかし天正10年3月11日に武田勝頼は多くの重臣たちに離反され一族とともにこの付近において最後の決戦をする運命に陥ったのである。小宮山内膳は主君の危急を知り決戦の前夜一行に追い付き「友晴が譜代の臣でありながら武田家の最後の戦いに臨めなかったなら小宮山家末代までの恥辱であり武士道にも背くゆえ蟄居の許しを請い最後の戦いに御盾となり高思の万分の一にも報いたい」と言上した。勝頼は「あっぱれな武士の鑑よな余の不徳の致す処であった」と直ちにこれを許した。小宮山内膳は勇躍戦いの最前線であるこの地に陣を敷き寄せ来る敵と奮戦数刻の末従容として主君に殉じたのである。戦いの直後奇しくも内膳の弟僧の拈橋がこの地を訪れ殉死した一族の霊を弔い内膳には「忠叟道節居士」の法名を贈った。後に水戸藩の儒学者藤田東湖は文天祥の正気の歌に和して「或殉天目山 幽囚不亡君」と詠み崇高な至誠を貫いた内膳の忠節義烈を称えている。
(石碑裏の文章より)
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