椎津城 |
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地元では通称「城山」と呼ばれている戦国時代の城郭跡です。築城年代は不明ですが、真里谷武田氏・続いて安房里見氏の重要な拠点として位置付けられてきましたが、天正18(1590)年徳川軍によって攻められ、落城したとされています。 |
登り口
築城者についての確かな文献がないが、『千葉大系図』に千葉氏の一族椎津三郎の名がみえる。椎津三郎は交通の便と穀倉地帯を控えた地として、椎津を選んだものと思われる。また、先年まで城山の本丸北側の中段の断崖下にあったとされる板碑には、「慶応3(興国元=1340)年12月日」と刻まれており、城山の歴史を物語るものと考えられるが、現在は所在がわからなくなっている。 |
椎津城全景
房総の中世城館跡のなかでは同時代資料に恵まれている城である。初見資料は永正16(1519)年頃と考えられるもので(「喜連川家文書案」)、真里谷武田氏に擁立された小弓公方足利義明がいた「椎津要害」を対立する古河公方足利高基が攻めている。このことから、当時の椎津城は真里谷武田氏の属城の一つであったことがわかる。その後天文3(1534)年には真里谷武田氏の内紛を契機に足利義明によって攻められた(『快元僧都記』)。次に永禄3(1560)年には後北条氏が当地域を本貫地とする村上氏に対して「椎津大普請」を命じている(「下総国旧事記五」)。天文3年から永禄3年の間には、天文6(1537)年第一次国府台合戦で小弓公方は滅亡し、また真里谷武田氏もその間に滅亡していることから、当城は北条市の属城となった。しかし、下総方面に浸出する里見氏との間で争奪が繰り返されたようで、永禄12(1569)年には椎津城は里見氏の下総浸出の前線拠点となっていた(「豊前氏古文書抄」)。天正期に入ると北条氏は再び上総侵攻を図り、天正4(1576)年には椎津城近くに有木城(市原氏)を築いていることから、この前後には椎津城は北条氏の手に入ったものと考えられる。それ以後天正18(1590)年に北条氏が豊臣秀吉によって滅ぼされるまで里見氏は取り返すことはできなかった。天正期の椎津城は東京湾岸の里見氏勢力に対する境目城であったため、土気酒井氏や原氏などが交代で城番を務めていた(「三浦文書」)。北条氏滅亡後の椎津城は上総の領主となった徳川家康の家臣が入城する事なく廃城となった。
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