甲陽軍鑑の品第二十二の甲信境瀬沢合戦の事にはおおよそ次のような内容が書かれています。
天文11年2月に小笠原長時、諏訪頼重、村上義清、木曽義康が申し合わせていることが古府中に伝えられ、武田の家臣板垣信形、飯富兵部、甘利備前、諸角豊後、原加賀守、日向大和守などが集まって協議し、武田晴信公に次の通り意見を申上げた。
1.今川義元に援軍を頼むか、もしくは兵1万人の加勢をお願いする。
2.海尻城をあけて、小山田備中、小宮山丹後守を呼び寄せれば敵は勢いにのって甲府まで攻めてくるであろうからそこで戦えば勝利が得られるだろう。
3.敵は諏訪勢と村上勢の二手に分かれてくるであろうから、武川口には典厩様、若神子口へはお屋形様が陣を進めて合戦するべきである。
武田晴信はこの作戦文書を見て、作戦には悪いところはないが今川勢の加勢を頼むことには反対した。今回の合戦は地元での戦いでもあり見方の勝利は間違いないから晴信にすべてを任せてほしいとされた。そして信濃勢が瀬沢に陣した報告を聞くと、晴信はすぐに軍を出動することにした。というのも敵が若神子口、武川口に別れて攻め込んで来るとこちらも兵を二つに分けなければならなくなるからである。武田勢は韮崎、武川に陣を張り、すぐに瀬沢の敵を急襲。諏訪勢には飯富兵部、村上勢には甘利備前、板垣信形、小笠原勢には小山田信有、晴信の旗本勢が味方の弱いところを補強した。3月9日に行なわれたこの合戦は朝8時から始まり午後2時には終わった。武田勢は信濃勢1621人を討ち取ったが、味方も死傷者が多数あり、原美濃守は6ヶ所負傷、飯富兵部、甘利備前も負傷したとのことである。
山梨県と長野県の県境付近はいつも中央高速で走っていたので今回初めて甲信国境付近の国道20号線を走りました。甲信国境は川が流れていて橋が架かっていました。ここから北にしばらく走ると瀬沢というところに来ますがここは標高差があるところで道路がS字カーブになっていました。急なカーブの国道沿いに上の写真のような碑がありました。
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