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長野県富士見町

センボウ塚

2016年12月18日

池袋の馬冷場と呼ばれる池は、花鳥屋合戦の時に馬を冷した場所と伝えられている。池袋には花鳥屋合戦についての口碑が他にも残存し、馬冷場付近のセンボウ塚(センブ塚ともいう)はこの戦いで死んだ者の塚で、千部の施餓鬼を営んだ所であるといわれている。花鳥屋合戦は八ヶ岳の裾野の花鳥屋及び編笠山中腹大嵐の辺において天文8(1539)年2月18日に信州村上方の侍大将の清野・高梨・井上・隅田の4人の軍勢都合1500人が武田晴信の軍と戦ったものである。この戦で多田三八の計略のために信州方は敗戦し、武田方は172もの首級を得たという。この辺では今もなお甲の鉢や刃槍の折れたもの、矢尻等を発掘することができるという。
(長野県の武田信玄伝説より)

 



2007年04月15日

池袋の馬冷場と呼ばれる池は、花鳥屋合戦の時に馬を冷した場所と伝えられている。池袋には花鳥屋合戦についての口碑が他にも残存し、馬冷場付近のセンボウ塚(センブ塚ともいう)はこの戦いで死んだ者の塚で、千部の施餓鬼を営んだ所であるといわれている。花鳥屋合戦は八ヶ岳の裾野の花鳥屋及び編笠山中腹大嵐の辺において天文8(1539)年2月18日に信州村上方の侍大将の清野・高梨・井上・隅田の4人の軍勢都合1500人が武田晴信の軍と戦ったものである。この戦で多田三八の計略のために信州方は敗戦し、武田方は172もの首級を得たという。この辺では今もなお甲の鉢や刃槍の折れたもの、矢尻等を発掘することができるという。
(長野県の武田信玄伝説より)

信濃境の駅から少し登ったところあたりのお宅でセンボウ塚や、花鳥屋について聞いてみました。その方のお話によるとセンボウ塚があるとされる池袋(いけのふくろ)というのはもう少し下ったところにあるとのことでしたが、花鳥屋という場所はまったく正反対の方向で八ヶ岳の方に向っていったところであるとのことでした。古戦場といわれている花鳥屋と戦死者の塚は少し離れたところにあるようです。今回は古戦場ではなく戦死者の塚といわれているセンボウ塚の方に行ってみることにしました。池袋地区に行ってセンボウ塚について聞いてみると地元の人は知っているようですぐに場所を教えてくれました。しかしセンボウ塚が武田信玄に関係のあるものであるという話は聞いたことがないとのことでした。狭い砂利道を進んで行って途中2つに分かれたら左のほうに行くとのことで進んでみましたが墓地に到着してしまいました。引き返して途中神社のようなものがあったので周辺を探してみましたがそのうち先ほどお話を聞いた方が声をかけてくれて先ほどの2つに分かれた道は右の方にいくとのことでした。教えてもらった通りに行ってみるとすぐに左側にセンボウ塚を見つけることができました。センボウ塚と書かれた石碑と木の杭の間に面白い形をしたものがありました。その奥には少しこんもりとした塚のようなものがありました。ところで、馬を冷したとされる馬冷場について確認するのを忘れてしまいました。今度訪問した際に確認したいと思います。

 

 
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