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静岡県浜松市

西来院

2013年01月27日

曹洞宗、高松山と号し、寒巌十三派中月窓派と称した。月窓義運禅師が正長元(1428)年に自力開創し、本尊は釈迦牟尼仏。
長藤の寺として親しまれている。
墓苑には徳川家康の正室築山御前の廟堂(月窟廟)をはじめ、家康の異父弟松平源三郎康俊、江戸時代の浜松女流歌人杉浦真崎、森繁子などの墓がある。
戦国乱世の悲劇の女性築山御前は天正7(1579)年佐鳴湖畔におき数奇な運命のもとに散華した。38歳。法名は清池院殿潭月秋天大禅定法尼。戦災のために焼失した廟堂は昭和53年の4百年忌に復原された。
境内の森は野鳥の楽園で、美しい景観を呈している。
(看板資料より)


築山御前の墓

静岡市が出身地であったから「お瀬名の方」と呼ばれた。父は今川一族で重臣の関口刑部少輔親永。母は今川義元の妹である。岡崎の松平元信(後の徳川家康)が今川人質時代に結婚。長男信康、長女亀姫を産んだ。
家康が名実共に岡崎城主となるや、城内の築山御殿に居住したので「築山御前」と呼ばれた。同盟関係にあった織田信長と徳川家康両者間における政治的駆引と、岡崎城内における派閥抗争など、複雑に交錯する政治的、人間的関係のひずみのなかで、遂に夫である家康により殺害されていった。力において優れていた信長の命令とはいえ、三河の為、徳川家康安泰のために屈服せざるをえなかった家康の苦悩もさることながら、あまつさえ身に覚えなき「謀反人」の汚名を着せられて、一人淋しく浜松の野に散華した御前の姿を想うとき、いかに戦国乱世とはいえ、余りの痛ましき、果かなきに涙を禁じえないものがある。
時に天正7年8月29日(西暦1579年9月29日)御前38歳。家康これを哀れみ「いおう禅師」に命じて懇ろにこの地に葬らしめた。
法名は、清池院殿潭月秋天大禅定法尼
(看板資料より)


松平源三郎康俊の墓

家康公の異父弟で、幼少にして徳川氏の人質として駿府の今川氏真のもとに送り込まれ、12才の永禄11年、武田信玄が駿河の国に南下し駿府を囲んだ時氏真は遁走したが、康俊は武田方に捕らえられた。2年後、厳寒の中を脱出し、三河に帰着した時には凍傷により両足の指がほとんど脱落していたという。家康公は温かく彼を遇したが、32才の若さで没した。康俊子孫にあたる勝以の建立による。
墓碑名、善照院殿泉月澄清大居士。天正14年4月3日
(看板資料より)

 

 
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