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山梨県甲州市

於曽屋敷

2006年03月12日

山梨県指定県文化財
史跡 於曽屋敷
俗に土手屋敷と称され、文安年代世紀1444年から1449年の武田系図によると、加賀美遠光の子四郎経光が於曽氏を名乗り、即ち、ここに居館を構え於曽郷一帯を領有していた。室町時代既に範囲を極めていたと推定できる。
於曽屋敷は土盛り下土手屋敷で典型的な豪族の館跡である。面積は一町四面(約1万平方メートル)の広さを有し、昔は二重の土手をめぐらし、内土手と外土手の間に川が流れ、有事の際は濠としたものと思われる。
廣瀬家の口伝によると、於曽郷一帯を領有していた於曽氏も、うち続く戦乱により館を焼き、一時荻原山に潜んでいたが、徳川幕府の甲斐の国に対する懐柔策に安心し、再び当屋敷に戻ったのであるが、旧性於曽氏を名乗ることは遠慮し、母方の姓である廣瀬を名乗り百姓となった。以降屋敷内に武士たる祖先を祀り、屋敷神として今日に到った。

1.当屋敷の西北隅に、始祖於曽四郎経光の墓がある。
1.当屋敷の東北隅に、於曽氏を祀る社がある。
1.当屋敷東南50メートルの所に於曽家の家臣板垣権兵衛の切腹石がある。
尚、昭和49年31代当主廣瀬久忠により、屋敷の二分の一余が塩山市に寄贈され、現在於曽公園として公開されている。
(看板資料より)

史跡 於曽屋敷
塩山市下於曽元旗板に所在する。四囲は土手を二重に巡らせ、門は南・西に開いている。現在、東西96メートル、南北約120メートル、山梨県内の中世豪族屋敷として唯一完備したものである。
土塁基底幅は10.6メートル、高さ3メートルの豪壮な土塁を囲続し、小字名「はたいた」とあるところから、土塁上に更に板塀を巡らせた防御設備があったと考えられる。
「於曽」の起りは平安中期の「和名抄」に記載がみえ、この地の開拓者は旧豪族の三枝一族であった。その後甲斐源氏加賀美遠光の四男、五男がこの地を支配し於曽氏を称した。
この於曽屋敷は加賀美遠光の四男光経、更にその子遠経の屋敷と伝えられ、鎌倉初期の創立である。後に於曽氏数代の居館となり、信玄の時代には同族である板垣氏が於曽を継承し、於曽殿として活躍した。また。この屋敷の周囲には金山の管理者である金山衆が多く住居を構え、また金製法の作業場があったことから、当屋敷はそれら金山関係者の役宅とも考えられる。
更に今日於曽屋敷内から採集される土師質土器から考察しても、当屋敷が鎌倉時代から室町時代にかけて経営されたと考えられ、文献資料と一致する。昭和60年、山梨県埋蔵文化センターが外土塁内作場を調査したところ、門の位置が現在より東に12メートル寄り、その前に土橋、柵列があったことが確認された。
(看板資料より)

板垣権兵衛の切腹石

塩山駅の少し南に位置しており、少し分かりづらいところです。狭い道を通り抜けると於曽公園にたどり着けます。駐車場も完備されているので安心して駐車することができます。駐車場から向って左側はご当主の方の住居になっているものと思われ、右側は於曽公園として公開されていました。周囲は比較的大きな土塁で囲われていて屋敷跡を彷彿とさせます。案内板に書かれていた板垣権兵衛の切腹石は駐車場からもう少し先に行ったところにありました。

 

 
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