大島城 |
2015年10月12日 |
大島城は一名台城、又の名大蛇ヶ城という。平安時代末期船山城主片桐為行の第8子八郎宗綱が大島郷へ分知して大島氏を称し、この地に城を築いたが、始めは簡単な砦程度のものであったらしい。その後戦国末期までおおよそ400年間城主として大島郷を領知したが、武田氏の伊那侵攻により同氏に属した。 |
本丸
大島城は天竜川に面した伊那谷特有の河岸段丘の突き出した部分に位置している。北から流れてきた天竜川は、この突出部にさえぎられて、湾曲しながら南方へ流れていく。 |
本丸
本丸から天竜川を望む
二の丸
二の丸櫓跡
二の丸土塁跡
二の丸
三の丸
三の丸土塁跡
三の丸
三の丸と二の丸の間の堀
三の丸と二の丸の間の堀
堀切
馬出し
姫観音
城の生命線ともいうべき飲料水を確保した井戸の跡で本丸北方の断崖の下に往時のままの石組を残しています。周囲を土塁で囲み外部からは井戸が絶対に見えないようにしています。 |
金鶏伝説を伝える井戸跡
土橋
三日月堀
三日月堀
三日月堀
2004年3月13日 |
大島城は一名台城、又の名大蛇ヶ城という。平安時代末期船山城主片桐為行の第8子八郎宗綱が大島郷へ分知して大島氏を称し、この地に城を築いたが、始めは簡単な砦程度のものであったらしい。その後戦国末期までおおよそ400年間城主として大島郷を領知したが、武田氏の伊那侵攻により同氏に属した。 |
三日月堀
平安時代の末、南信濃源氏片桐氏は片桐郷の南に続く大島郷に分知しました。それは片桐兵庫助為行の八男の片桐八郎宗綱で、在名をもって大島八郎宗綱を名のったのが大島氏のはじめです。大島氏は鎌倉幕府に仕え、以降中世を通じてこの一帯を領有・統治し、大島城・北の城、沼の城などを築きました。 |
本丸
この城址は天正10年2月、織田氏の伊那進攻により落城した。以来400年を数えるに当りこの碑を建立する。 |
天竜川
金鶏伝説を伝える井戸跡
城の生命線ともいうべき飲料水を確保した井戸の跡で本丸北方の断崖の下に往時のままの石組を残しています。周囲を土塁で囲み外部からは井戸が絶対に見えないようにしています。 |
一番上の写真で分かるように天竜川を利用して構築された城で、規模も大きく台城公園として整備されています。駐車場も立派でかつ車がたくさん駐車されていて驚きましたが、マレットゴルフのせいであることが分かりました。真田にもこういうところがありましたが長野県では流行っているのでしょうか?
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