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長野県松川町

大島

2015年10月12日

 

台城公園案内図

大島城は一名台城、又の名大蛇ヶ城という。平安時代末期船山城主片桐為行の第8子八郎宗綱が大島郷へ分知して大島氏を称し、この地に城を築いたが、始めは簡単な砦程度のものであったらしい。その後戦国末期までおおよそ400年間城主として大島郷を領知したが、武田氏の伊那侵攻により同氏に属した。
元亀2(1570)年、武田氏は飯田、高遠と共にこの城の大修築を行い、現に見るような規模とした。この修築には郡下21郷から人足を出させたとの記録がある。
城は典型的な平山城で、本丸、二の丸、三の丸に当る曲輪を持ち、東と北の崖に帯曲輪を設け、それらをめぐって空堀、三日月堀、井戸など何れも跡をとどめている。
天正10(1582)年、織田氏の伊那侵攻によりもろくも落城し、建物は焼失した。今でも本丸跡から当寺の焼米が見出される。
(看板資料より)


本丸

大島城は天竜川に面した伊那谷特有の河岸段丘の突き出した部分に位置している。北から流れてきた天竜川は、この突出部にさえぎられて、湾曲しながら南方へ流れていく。
城の構造は、段丘の先端部に主郭を置き、そこから西方へ向って堀を隔てて二の郭、三の郭を置いている。梯郭式の要素を持った連郭式の平山城に分類できるであろう。主郭は東側直下に天竜川の流れを望む平場である。西側と北側には土塁が置かれている。北斜面には付属施設として腰郭、竪堀、竪土塁などが見られる。この付近に井戸が現存しており、井戸の防御施設と考えられる。二の郭、三の郭はそれぞれ外縁部に土塁を築き、特に西方大手方面の防御を強化している。三の郭の外側に三日月堀がある。城の大手は三日月堀の北にあったといわれている。この西方に「羽場」「林泉寺畑」「下町」「辻畑」「町裏」「町」「町並」などの地名が残り、城下であった形跡を残している。
大島城の最初の居城者については、「大塔物語」「結城陣番帳」「諏訪御符礼之古書」などに名が見えている大島氏であるといわれている。その出自は清和源氏為公流片切氏の庶流であるとされているが確実性に乏しい。草創期の大島城の状況についてはまったく不明である。
武田氏の伊那攻略後、元亀2(1571)年3月、当時飯田城代であった秋山信友が奉行として「大島之普請」を行うことを武田信玄から命ぜられいる。これが一般に現在の大島城の構築の時点とされている。この時、「大島之普請」には現在の伊那郡高森町、豊丘村、喬木村、下条村、泰阜村および飯田市のうちに比定される二十郷の人足が狩り出されている。信玄の伊那谷支配の中核として構築されたのであろう。信玄の死後、織田氏の伊那谷攻略に際して大島城は上伊那防衛の拠点となった。「信長公記」によると、天正10(1582)年2月、織田信忠を大将とする織田軍は14日夜に飯田城を落とし、16日には大島城に迫った。城には、日向玄徳斎を守将として小原丹後守、武田信廉、安中氏らが在城していたが、その日の夜中、戦わずに落城した。織田氏はその跡へ河尻秀隆と毛利秀頼を入れて管理をさせた。3月になり武田氏滅亡の報を受けた織田信長は、17日に大島城の城下町と思われる「大島町」に禁制を掲げて、治安への注意を払っている。大島城が廃城になった時期は正確には分からないが、これ以降文献上には現れなくなる。
天正20(1592)年に当時飯田城主であった毛利秀頼によって道路改修工事が始められ、次いで文禄2(1593)年には、毛利氏のあと飯田城主となった京極高知がこの街道に宿駅を設ける目的で大島城下町を約4km西北に移した。この後旧城下町を古町と称することになった。遅くともこの時点で大島城は廃城になったといえるであろう。
(日本城郭大系より)

本丸

本丸から天竜川を望む


二の丸

二の丸櫓跡

二の丸土塁跡

二の丸


三の丸

三の丸土塁跡

三の丸


三の丸と二の丸の間の堀

三の丸と二の丸の間の堀


堀切


馬出し


姫観音

城の生命線ともいうべき飲料水を確保した井戸の跡で本丸北方の断崖の下に往時のままの石組を残しています。周囲を土塁で囲み外部からは井戸が絶対に見えないようにしています。
大島城は天正10(1582)年、織田氏の甲信侵攻により落城してしまいました。落城のおり、お姫様が黄金のにわとりを抱いてこの井戸に身を躍らせたという悲しい伝説が伝えられています。元旦の早朝には井戸の底からにわとりの鳴く声が遠くかすかに聞こえるとも言われています。ここに姫観音を建立し供養する。
(看板資料より)

金鶏伝説を伝える井戸跡

土橋


三日月堀

三日月堀

三日月堀

 



2004年3月13日

台城公園案内図

大島城は一名台城、又の名大蛇ヶ城という。平安時代末期船山城主片桐為行の第8子八郎宗綱が大島郷へ分知して大島氏を称し、この地に城を築いたが、始めは簡単な砦程度のものであったらしい。その後戦国末期までおおよそ400年間城主として大島郷を領知したが、武田氏の伊那侵攻により同氏に属した。
元亀2(1570)年、武田氏は飯田、高遠と共にこの城の大修築を行い、現に見るような規模とした。この修築には郡下21郷から人足を出させたとの記録がある。
城は典型的な平山城で、本丸、二の丸、三の丸に当る曲輪を持ち、東と北の崖に帯曲輪を設け、それらをめぐって空堀、三日月堀、井戸など何れも跡をとどめている。
天正10(1582)年、織田氏の伊那侵攻によりもろくも落城し、建物は焼失した。今でも本丸跡から当寺の焼米が見出される。
(看板資料より)


三日月堀

平安時代の末、南信濃源氏片桐氏は片桐郷の南に続く大島郷に分知しました。それは片桐兵庫助為行の八男の片桐八郎宗綱で、在名をもって大島八郎宗綱を名のったのが大島氏のはじめです。大島氏は鎌倉幕府に仕え、以降中世を通じてこの一帯を領有・統治し、大島城・北の城、沼の城などを築きました。
南信濃攻略をうかがっていた甲斐の武田氏は天文23(1554)年、一挙に伊那郡に侵入し、ここを手中にした晴信(信玄)は秋山信友を飯田城におき伊那谷を統治しました。
元亀2(1571)年、武田氏は大島城を東海地方攻略、ならびに京へ上るための拠点とするため、伊那郡代秋山信友に命じて大島城の大修築を行いました。この時、下伊那19の郷民と2衆を城普請の人足として強制的に動員したことを記す武田氏の朱印状が残っています。現在の大島城はこの時に構築されたもので、武田流築城法による馬出や三日月堀、三つの曲輪とそれを取り巻く迷路のような空掘が当時のまま残されています。
信玄亡き後の勝頼の代、天正10(1582)年、織田氏が伊那郡に侵入した時、大島城は信玄の弟の信廉が守っていましたが、信廉ら有力な武将は織田氏の進撃に驚き、夜中に逃亡したことが『信長記』に記されています。
城内からは建物の礎石や雨落溝の石列、陶磁器や古銭、焼米などが発見され、井戸跡には落城の際お姫様が金の鶏を抱いて身を投げたという悲しい伝説も伝えられています。
(看板資料より)


本丸


この城址は天正10年2月、織田氏の伊那進攻により落城した。以来400年を数えるに当りこの碑を建立する。
(石碑裏に記載された文章より)


天竜川


金鶏伝説を伝える井戸跡

城の生命線ともいうべき飲料水を確保した井戸の跡で本丸北方の断崖の下に往時のままの石組を残しています。周囲を土塁で囲み外部からは井戸が絶対に見えないようにしています。
大島城は天正10(1582)年、織田氏の甲信侵攻により落城してしまいました。落城のおり、お姫様が黄金のにわとりを抱いてこの井戸に身を躍らせたという悲しい伝説が伝えられています。元旦の早朝には井戸の底からにわとりの鳴く声が遠くかすかに聞こえるとも言われています。ここに姫観音を建立し供養する。
(看板資料より)


一番上の写真で分かるように天竜川を利用して構築された城で、規模も大きく台城公園として整備されています。駐車場も立派でかつ車がたくさん駐車されていて驚きましたが、マレットゴルフのせいであることが分かりました。真田にもこういうところがありましたが長野県では流行っているのでしょうか?
伊那谷の城を巡ると、武田晴信に滅ぼされたという時代と、織田信長に滅ぼされたという時代がでてきますが、この大島城は信長軍と戦うことなく武田信廉が逃亡して落城してしまいます。どんなに立派な城でも守る人間がいなければ話になりませんね。

 

 
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