長野県松川町
長野県史跡 船山城跡 この城跡は、平安時代末から室町時代末に至る四百有余年にわたり、伊那地方に栄えた信濃の名族、片切氏によって築城されたものであり、天正10(1582)年に織田氏の侵攻によって落城したと言われるまで同氏の本拠地になっていたところである。 城跡は、下伊那郡松川町の集落とその東方に延びた河岸段丘の先端の地形を利用して構築されている。南は南沢の渓谷、北は天神びらの急斜面で上伊那郡中川村南田島に面し、天竜川及び天竜川の東の丘陵地帯を展望できる要害の地に位置している。また、西方より東方に細長く突出した形状が、船を山上に置いた如くに見えることから、船山城の呼称が起きたものであろう。 城跡の規模は、出丸と呼ぶ船山一帯の郭地域(中世前期)及び城畑一帯の本城地域(中世後期)の2地域で、本城には大規模な2つの郭が設けられている。城内の北隅には守護神の御謝山神社を祀り、城外に接して瑞応寺(元は宝珠院)があり、一帯は古城館跡の遺構をよく残しておりこの地方の代表的な中世城館跡である。 (看板資料より)
本城址は平安時代伊那郡の豪族南信濃源氏の主流片桐氏がその本據片桐郷中村より移居して後其居城たりし所。 爾来室町時代を経て戦国時代に及び威を四方に振るいしが、天正10年織田信長の伊那郡攻略に際し、同年2月兵火の為に自落。以降廃城となる。 (石碑記載文章より)
平安時代末期から信濃源氏の主流片桐氏が居城したが、天正10(1582)年織田勢の侵攻により落城となった。 (長野県の武田信玄伝説より)
二の丸跡付近
なかなか見つけることができず苦労しました。近所の方に聞いて目印は御射山神社であるとのことでした。 御射山神社の正面に船山城と書かれた大きな石碑と説明資料がありました。それによるとそこから更に奥に向かって郭が連続的にあったとのことでした。ちょうど松岡城と同じような構成のようでした。しばらく奥の方まで歩いて行ってみましたが途中小さな棒杭に本丸などと書かれたものだけがありました。堀などの遺構はあまり残されていないように見受けられました。
御射山神社