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愛知県岡崎市

奥平九八郎貞勝の墓

2014年03月29日

奥平家の先祖は上野国に住んでいましたが、南北朝時代、作手に来住し勢力を伸ばしました。戦国時代になって、奥平九八郎貞勝が当主になったころは、今川、織田、武田、徳川の強豪に囲まれていて、家の存続をはかるのは大変なことでした。ある時は織田方、ある時は今川方、ある時は武田、徳川に二またをかけるようにして戦国の世を渡ってきました。
元亀元(1570)年、奥平氏は孫の仙丸等を人質として武田方にわたし、貞勝と常勝は武田方につき、貞能、信昌は徳川方につきました。
天正10(1582)年、武田勝頼敗北後、武田方についていた貞勝は田代城に戻り、この地に潜居しました。子や孫の繁栄を陰で見守りながら、文禄4(1595)年10月9日、84歳の生涯を終えました。
(看板資料より)



2005年02月11日

奥平家の先祖は上野国に住んでいましたが、南北朝時代、作手に来住し勢力を伸ばしました。戦国時代になって、奥平九八郎貞勝が当主になったころは、今川、織田、武田、徳川の強豪に囲まれていて、家の存続をはかるのは大変なことでした。ある時は織田方、ある時は今川方、ある時は武田、徳川に二またをかけるようにして戦国の世を渡ってきました。
元亀元(1570)年、奥平氏は孫の仙丸等を人質として武田方にわたし、貞勝と常勝は武田方につき、貞能、信昌は徳川方につきました。
天正10(1582)年、武田勝頼敗北後、武田方についていた貞勝は田代城に戻り、この地に潜居しました。子や孫の繁栄を陰で見守りながら、文禄4(1595)年10月9日、84歳の生涯を終えました。
(看板資料より)

奥平貞勝の墓所はもともと滝山城(亀穴城)の屋敷跡にあったそうですが、山崩れにより現在の場所に移されたとのことです。宮崎神社の裏側に明見公民館がありますが、その公民館の横に奥平九八郎貞勝の墓がありました。武田と徳川の二大勢力に挟まれた状況の中、どちらが生き残るのか分からないまま一族が別れたのか、または徳川の世になることを見通したうえで子や孫達を徳川方につかせたのか分かりませんが、自らは次男の常勝とともに武田方につき、武田が滅ぶまで甲斐にいたとのこと。奥平家存続のために幾多の合戦にて活躍し波乱の生涯をおくったものの、武田方についたためにその名が語り継がれていないのではないかと言われているらしい。

 

 
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